世間に言われるごとく、40を過ぎるとノンフィクションにしか目が向かなくなっていたが、昨今、”美しい日本語”という企画で川端康成が取上げられたのを機に作品を読み返してみた。
”雪国”と”山の音”の2作品である。
その昔「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」で始まる”雪国”の印象は、定職を持たぬ中年男の現実逃避のように思えたし、”山の音”は同居家族との葛藤に悩む老人の繰り言にしか思えなかった。
再び目を通したいとは思わなかったが、30年を経て再読してみると、主人公のどこか満たされず、哀しみを耐えている心のひだが胸深く染みわたってきた。
その歳になってはじめて受容できることがあるものだと得心した。
いずれも巷間に見聞するはなしといえなくはないが、心象はほどなく思い出と化すため、実体験としてもそれをきめ細かに綴ってみせるのは容易なことでない。
まるで私小説かと思わせる見事な修辞であるが、主人公と作者の実像は全く異なる。
日頃われわれは、気持ちを伝えるのに言葉はあまりに少ないと嘆いているが、彼の手にかかると、こころの奥底まで洗いざらい文章になってしまいそうだ。
その無駄のない簡潔な文体は、技術が研ぎ澄まされていったとき、辿りつく頂点のひとつであることに違いはなかろう。
したがって、別の頂点にいる夏目漱石や志賀直哉などの名文家と優劣を比較するような試みは全く意味をなさない。
医療技術にも似たようなことが言える。
たとえば胃のレントゲン診断は、適量のバリウムを飲用した後、空気量を加減しながら注入し、体位を工夫しながら胃内の微細な変化をX線下に描出する。
技術が向上すれば、ミリ単位の小さなガンも描出可能となる。
胃腸の内視鏡診断も同様で、技術が向上すれば、ガンの質的診断はもとより治療方針まで、たちどころに決定することができるようになる。
しかしながら、一流といわれる技術者もその手法は似て非なるもので、山頂に到るのにいくつものルートがあるように、技法は個性に応じて各々異なる。
したがって、高いレベルに達すれば、どの術者がすぐれているかを論議するのはほとんど意味を成さないこと前述のごとくである。
宮本武蔵は”五輪書”のなかで、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。」 と述べ、彼ほど天賦の才に恵まれたものでも、一流への道は日々のたゆまぬ訓練であると言わしめている。
しかも、技術は鍛錬を中止すればたちどころに落ちていく運命にある。
更にいうなら、あらゆる技術には寿命がある。
力をもってする技術は歳のせいにできるが、頭のなかで構築する技術は歳のせいにしにくい。
本人が認めたがらないからである。
川端康成の苦悩もここにあったのであろうか。
歳とともに書けていたものが書けなくなったとき、頂点を極めた人物が、自らの存在に終止符を打とうとしたのかも知れない。
ひとと技術の関係はかくも非情なものかと思ったことである。