日本史ひとこま/nihonsi

明神の秀吉、権現の家康

明神の秀吉、権現の家康

明神の秀吉、権現の家康

538年、仏教が日本に入ってきたときから、神の子孫とされる天皇家では、自身の神と仏のとり扱いに頭を悩ませてきた。

奈良時代のはじめ、聖武天皇は仏教に帰依し、東大寺に大仏を造って人心を掌握しようと目論んだ。

ところが、神の子孫である天皇が仏を信仰するとなると、「神は仏のしもべ」ということになる。この混乱を収束させようとして、神と仏は根本的に一緒とする神仏習合なる妙手が生まれた。

本地垂迹説の登場

とくに平安時代になると、神仏習合に磨きがかけられ、神は仏の化身で、人々を救うために現世に現れているとする「本地垂迹説」が世を覆った。

本地垂迹の本地(本物)は仏であり、垂迹(仮の姿)は神を意味する。

この時代、特に崇拝される神は「明神」や「権現」と呼ばれるようになり、庶民を救済するため現れた仏の化身として崇められた。

すでに平安期には、住吉大明神、松尾大明神、伊勢大明神などが出現し、一方権現も、日吉神社を山王権現、熊野神社を熊野権現、箱根神社を箱根権現とするなど、公家、武家の世を通じ「明神」と「権現」は隆盛を極めた。

吉田神道の登場

時代が下って、室町末期に登場した吉田神道は、発想を逆転して反本地垂迹説を唱えた。すなわち、本地は神であり、仏は神を補佐する存在(神主仏従)であるとして、神の優位を強調した。

その後、吉田家は朝廷や秀吉、家康と古典・神祇等で親交を深め、全国の神職の任免権を得た結果、全国の神社を勢力下におくことに成功した。

吉田神道は神道を基本としながらも、儒教、仏教、道教、陰陽道を混和した特異な神道であるが、その融通性ゆえに、世間には受け容れられやすかったといえる。

秀吉、大明神となる

慶長3年(1598年)病死した豊臣秀吉の遺体は、遺命により方広寺の東方、阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された。

生前秀吉は、奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したが、吉田神道に基づき、朝廷からは豊国乃大明神の神号が与えられた。

時の最高権力者に対し、これ以上ないという神号である。彼は神式で葬儀を受け、大明神として豊国神社に祀られた。

この神号により秀吉は、神として祀られた初めての日本人となった。

家康、大権現となる

それから20年近い月日が流れ、1616年、家康が死去すると、吉田神道の主導で、彼もまた東照大権現なる神として祀られることとなった。

そのいきさつについては、こんなエピソードが残っている。

家康の最側近として辣腕をふるった南禅寺住職・崇伝は、家康の神号を「明神」として吉田神道で祀るべきと主張していたが、突然、天台宗大僧正の天海が横やりを入れた。天海は家康の遺言であると言明し、「権現」として山王一実神道で祭ることを主張したのである。

山王一実神道とは天海の唱えた山王神道で、神の山とされる比叡山の山岳信仰と神道、天台宗が神仏習合により成立した神道である。この時期、延暦寺の天台宗と結びつきを強めた日吉大社(比叡山山麓)の神々が、山王権現と称されるようになっていた。

天海は将軍・秀忠の問いかけに、豊国大明神の神号が贈られたあとの秀吉の末路を見れば、明神は不吉であり、さらに明神では秀吉の後塵を拝すると答えた。このため崇伝の主張は取り下げられ、天海の意見が採用された。

死んだ後も、秀吉に負けるわけにはいかぬという意向である。

その後は論争に勝った天海が、徳川家の宗教的主導権を握ったといわれる。

結局、家康の神号は「東照大権現」と決定された。家康の遺体は久能山から日光山に改葬され、3代将軍家光の手により日光東照宮が造営された。

明神と権現の行方

明神も権現も神仏習合の産物で、さしたる違いはないようだが、明神は、延喜式という法令集に規定された「名神(みょうじん)」から派生してきた経緯がある。

一方権現は、山王神道や両部神道に基づくものや、山岳信仰と修験道が融合して発生したという経緯の違いがある。

いずれにしても、中世から近世を通じ、神は本来の名前でなく神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれるようになり、その流れは明治維新を迎えるまで続いた。

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