中国において儒教は紀元前1世紀、漢の時代に国教となったが、その後外来の仏教に圧倒され鎮火していた。
10世紀、宋の時代になって官僚を中心に儒教復活の機運が盛り上がり、13世紀になって朱熹によって朱子学が完成した。
庶民ではなく、士大夫つまり官僚のための学問である。
従来の儒教と異なり、正邪を分別することに異常な情熱を傾けた大義名分論の体系というべきものであった。
忌まわしい夷狄の金が北方から迫っているという事情が背景にある。
朱熹は仏教、道教の論理を組み込んで壮大な宇宙観を展開し、宇宙には天の定める秩序があり、それぞれが天命に従えば宇宙の秩序は成り立つとした。
すなわち、世界は万物の根源である「理」と、それに対し、感情や欲望から自由になれない「気」によって構成されているが、人は理性を備えているため、努力して「理」を把握すれば社会秩序は保たれるとした。
理屈でがんじがらめにされた窮屈な世界である。
家康は戦後体制の安定化を図るにあたり、行儀作法のままならぬ武士どもを矯める手段に朱子学を採用した。
朱子学がとりわけ階級制度にこだわる点は、身分制度を根付かせるのにうってつけであり、士農工商の士には士大夫でなく武士をあてがった。
林羅山が博覧強記を買われて登用された。
しかしその地位は決して高くない。
剃髪のうえ僧侶のごとき屈辱的な姿での出仕となった。
しかし3代林鳳岡に至り家塾は湯島聖堂となり、彼は僧形を廃して畜髪を許され、大学頭(だいがくのかみ)を拝命した。
以後、大学頭(大学学長に相当)の官職は林家の世襲となった。
歴代将軍のなかでも5代徳川綱吉の儒学好きは尋常でなく、ついには周りに講話するまでに精通した。
その綱吉は老中政治に不満をいだき、将軍権力の奪還をねらって側用人政治を実施した。
すなわち幕閣の意見は、腹心・栁沢吉保を通さずには具申できなくしたのである。
吉保の存在感は一挙に膨張し、事実彼は老中の地位にまで登りつめることになる。
その栁沢吉保に抜擢され、儒学ならびに政治の講学を受け持ったのが、30を過ぎた少壮気鋭の荻生徂徠である。
将軍綱吉に寵用された吉保は,58度も自邸を来訪した綱吉のために儒者の講席を設け,徂徠を講師に選任した。
そして綱吉の中華癖に合わせ,吉保も華音(中国語で発音)にこだわり,徂徠に華音での講釈を命じた。
つまり、古典漢文を返り点、送り仮名なしで原文のまま、華音のみで講釈せよというのである。
当時の日本にこの難題に応えられる儒者は、おそらく徂徠以外いなかったとおもわれる。
驚くべきことだが、徂徠の中国語は全くの独学である。
これがきっかけで、徂徠は古文辞学を極めるようになる。
当時、朱子学の閉塞感に対抗して、孔子の時代に戻って古典を学び直そうとする動きがおこっていた。
寛文2年(1662)、山鹿素行は、朱子学を机上の学問で抽象的にすぎ、現実的でないと批判し、朱熹の考えでなく孔子や周公の考え方を、直接学ぶべきだと唱えた(古学)。
これに引き続き伊藤仁斎も、孔子没後千年以上も経って創られた朱子学の論旨に惑わされてはならないとし、古学の中でも、「論語」や「孟子」を緻密に読み解いた(古義学)。
その結果、人間関係には相手を思いやる「仁」が最も大切で、論語や孟子から、自分がとるべき正しい行動「義」を学ぶべきだと主張した。
しかし、これでは手ぬるいと、直接原語のまま古典を読み解こうとしたのが荻生徂徠である。
彼は、朱子学を憶測にもとづく虚妄の説であると喝破。
政治改革を目指しても、『理』『気』にとらわれ身動きが取れないため、既成概念の枠を取り払わねばならないと唱えた。
そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには尭や舜によって作られた儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとした。
さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならないと唱えた(古文辞学)。
六経とは『詩経』『書経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』の五経に「楽経」を加えたものである。
徂徠は主君柳沢吉保を通じて将軍綱吉への政治的助言を惜しまなかったが、さらに2代を経て8代将軍徳川吉宗からも厚い信任を得て、その諮問にあずかった。
とくに吉宗に奉呈した政治改革論『政談』は、政教分離を説いた彼の代表作となった。
元禄16年(1703年)、赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣が世論を後ろ盾に賛美助命論を唱えたのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。
すなわち、赤穂浪士がとった主君への復讐は、義に適うものではあるが、あくまで私的な論理である。
しかし一方で、公儀の許しも得ずに騒動をおこしたのは、法として許すわけにはいかない。
そこで武士の礼をもって、切腹に処するならば実父を討たれたうえに手出し無用とされた上杉家にも面目がたつ。
それが“まつりごと”というものであると栁沢吉保に進言。
結局、将軍綱吉は徂徠の意見を採りいれたのである。
もともと儒教は士大夫(官僚)による政治を本意とするが、実際に幕府政治に重きをなした儒者は、徂徠のほかには僅かに新井白石がいるぐらいである。
1709年、綱吉の死とともに栁沢吉保が失脚したため,徂徠は日本橋に私塾を開き,華話華音のみによる中国古典研究「古文辞」を13年間も続け、多くの門弟を育てたのち、63歳で没した。
男子の本懐というべきであろう。