その日の生活にも難渋する少年期を送った宗矩は、幸運にも父、石舟斎の武芸(無刀取り)が家康の目に留まり、その縁で徳川家に奉公する身となる。
その後、関が原や大阪夏の陣に活躍した後、将軍家剣術師範という武人としてこの上なき地位についた。
身の保全を考えれば、将軍家だけを相手に剣術稽古に日を過ごせばよいのである。
それに甘んじなかったところに彼の真骨頂がある。
彼の炯眼はもはや剣をふりまわす時代は終わったことを見抜き、行政官として幕府内で生き抜く道を模索したのである。
もともと柳生心陰流は剣禅一如の精神から発している。
相手をいかに倒すかではなく、泰平の世に兵法はいかにあるべきかに腐心した。
すなわち、“兵法は人を斬るとばかり思ふはひがごと也。
人を斬るにはあらず、悪をころす也。
一人の悪をころして、万人を生かすはかりごと也”と述べ、秀忠・家光と2人の将軍につかえた彼は、もののふとしてよりも施政者の心構えを説くようになる。
寛永9年(1632年)秀忠病没後、家光は宗矩を総目付に任じた。
総目付とは大名、旗本を問わず御三家に到るまで、秘密裏に調査し、将軍直訴の権限をもつ幕府諜報機関である。
さしずめ宗矩は日本版“CIA長官”というところである。
宗矩に目をつけられた大名たちは、さぞかし身の細る思いであったろう。
全国にいる柳生新陰流の門弟は、各藩所属の武士であると同時に、盟主宗矩に諸藩の事情を伝える諜報部員でもあった。
この情報を縦横無尽に活用し、宗矩は大名の改易を中心に40を超える粛清を行ったといわれる。
こうして外様大名に代表される反徳川勢力は削がれていき、幕府は確固たる地盤を固めていったのである。
確かに彼が武功をたてたという逸話は少ない。
たとえば、このような話がある。
家光の御前試合において、文九郎という馬術の達人が無敵の強さを示したため、家光は宗矩との勝負を命じた。
そこで文九郎は馬を駆って宗矩に突進したのであるが、宗矩は意外にも目前に迫った馬の面に一撃を与えたのである。
つづいて彼は、馬が動揺し体勢を崩した文九郎にも間髪をいれず一撃を与え、勝利をものにした。
これを見て家光は「なるほど真の達人とは虚実織り交ぜて戦うものよ」と感心し、「天下の政治の大要を但馬守(宗矩)に学んだ」と語ったという。
がしかし、見方を変えれば、宗矩自身、すでに自分の腕に対する自信が揺らいでいたともいえよう。
ただ、理論家としての彼は実に優れた著述を残している。
その随一が62歳で記した新陰流兵法花伝書であろう。
そのなかで兵法は敵を切るにはあらず。
敵に切られぬやうにすべしといいい、そのため敵をよせぬ心地をもたねばならぬと説いた。
また新陰流では立ち会いの場を「水月」と見立て、まずは相手に場を取らせ、自分は何の構えもとらない。
相手が焦って場所をとったとたん、自分の位置をすばやく決める。
これができるかどうかは、自分の心を水に映った月のように、少し離して見られるかどうかにかかっている。
この水が、場そのものである。
我々はしばしば水を動かして濁らせ、自分を水に映りにくくさせている。
映したいのなら水を動かさないことである。
水に映った月は斬れない。
平常心を失わず、常にそのような位置に身をおく重要性を説いた。
また一去といって、一太刀打ったら、そこですばやく心を返せという。
打った所に心を置くとスキができて相手の二の太刀を受けるからである。
さらに、間合いをはかって相手の太刀を死に太刀とし、しかる後に打って勝つ心構えを重要とした。
つまり攻撃こそ最大の防御と、先手必勝を説く武蔵に対し、まずは相手に攻撃させ、そのすきを狙えと説いた。
新陰流が“敵に随って転変する刀流”といわれる所以であろう。
また、無刀の極意は相手が刀をとられまいと動揺し、斬りかかれなくすることにあるという。
そのすきをみて相手との間合いをつめ、斬られて相手の刀をとるというぐらいの強い気持ちで対処することを説いた。
正保3年(1646年)、76歳で病床についた宗矩を家光は3度も見舞っている。
いかに家光が彼を気に入っていたかを物語るエピソードである。
この後、柳生新陰流は尾張徳川家に出仕した宗矩の甥、兵庫助によって受け継がれ、尾張藩の庇護のもと現在にまで相伝されている。