幕末の伊予大洲藩の藩収入は、たかだか蝋と和紙で、財政はきわめて逼迫していた。
さらに外様大名であるため海外情報に疎く、なにかと宇和島藩に接近し情報を得ていた。
一方、宇和島藩は安政3年以来、長崎に産物方をおき、交易をしている。
その彼らから、蒸気船を買って物産を運べば大商いができるという情報に、慶応2年6月、大洲藩家老・大橋播磨と加藤玄蕃は部下の国嶋六左衛門と井上将策を長崎へ派遣した。
そして宇和島藩産物方を通じ、坂本龍馬と五代才介を介して蒸気船アビソ号(いろは丸)を42000両(21億円に相当)で購入した。
大洲藩にとってはあまりの大金のため、大橋らは藩論を考慮し、表向きの名目は洋式銃の購入とした。
すなわち、蒸気船は国嶋の独断購入ということである。
この蒸気船がうまく働いてくれれば、2年目からは莫大な収益を得るはずであった。
が、事実は違った。
薩摩藩貿易責任者の五代才介(友厚)と龍馬は、この不案内な田舎者をうまく利用しようとした。
二人は国嶋に、他にも希望者がいるからとけしかけ、時価3万両の船を4万2千両の高値で売りさばいた。
また、汽船の運転教授を条件としたにもかかわらず、売却後、龍馬は姿をくらましたため、大洲藩では船を動かすことができなかった。
龍馬は最初から亀山社中でこれを借り受け、自ら商売しようとしていたのである。
事実、そのとおりになった。
さらに悲劇的であったことは、薩長同盟により蒸気船の馬関(下関)通行制限がおこなわれ、積荷の価格操作をうけるという知らせであった。
これでは大商いは無理である。
龍馬はこの情報も国嶋には知らせず、いろは丸を売却している。
家老の命令とはいえ、大洲藩に無断で蒸気船を買った国嶋は、動かすことのできないいろは丸を前に茫然自失となり、慶応2年12月深夜、長崎の宿で自決した。
38歳であった。
胸を刺し、頚動脈を刺し、血まみれになりながら死に切れず、部下の井上に介錯を頼んだ。
翌朝、訃報をききつけ龍馬と五代が現れた。
「武士たるものが、己の所存を達成できぬときは死ぬよりほかはないき。ああ、一知己を失うたか。惜しかったのう。」
といって去る龍馬に、怒り心頭の井上は、思わず斬りかかろうとして仲間に制止された。
薩摩・土佐を相手に喧嘩を売れば、大洲藩に迷惑がかかるからである。
国嶋の遺体は石灰づめにされ、極秘に大洲城下へ運ばれ、寿永寺に密葬された。
砲術の名手であったばかりに、家老の推薦をうけることとなった国嶋六左衛門。
長崎への出立は、悲劇の旅立ちとなった。
今に残る幕末哀史の一こまである。