シーボルト
二宮敬作は仁義に篤く、礼節をわきまえ信に足る人物であった。
幕末、八幡浜市保内町の寒村に住む少年がいかにしてこのような教養を身につけたのであろうか。
当時、この村にも儒教の教えは浸透していたようである。
しかも16歳の少年が、学問をしたくて長崎をめざしている。
この時期、長崎に行けば、蘭学を学んで身を立てることが出来るという情報が保内町にも伝わっていたということになる。
長崎にて苦学3年、偶然来日したシーボルトの鳴滝塾に入門する幸運に恵まれた。
20歳でシーボルトに師事した敬作にとって、彼は神のごとき崇高な存在であった。
シーボルトも勤勉実直なこの若者をことのほか可愛がった。
塾頭の高野長英を差し置いて、シーボルトのそばにはいつも敬作の姿があったという。
1828年、シーボルト事件がおこり、彼は国外追放処分となった。
その彼から、日本を去るにあたり、くれぐれも娘のことを頼む(当時2歳)といわれたのである。
なんとしてもこの青い目の子が日本社会で生きていけるように守ってやらねばならぬと、敬作は心に誓ったに相違ない。
敬作の一生はここにおいて決した感がある。
彼はこののち30年間、幾多の受難にも屈せずシーボルトとの約束を果し、彼の2度目の帰国に合わせるかのように息を引き取ったのである。
律儀といえばこの上ない生涯である。
シーボルトが去ったあと、事件に関わった50余人は次々に処分をうけた。
敬作も半年の入獄の後、江戸を追われ(江戸立ち入り禁止)、長崎からも追放された。
やむなく1830年、26歳で宇和郡卯之町に帰郷、3年後、伊達宗城候の命で卯之町(現・西予市宇和町)に医師として開業した。
とはいえ学問のため長崎に行かせた息子が罪人となっての帰郷である。
家族にとってシーボルトは疫病神であったに違いない。
以後20年間、幕府の目を逃れるように片田舎でひっそりと町医者に徹した。
本来ならこれで彼は歴史の表舞台から姿を消すはずであった。
そうならなかったのは、かつてのライバル高野長英とシーボルトの娘いねの存在による。
高野長英
田舎に引っ込んで6年後、突然、親友高野長英が捕縛されたのである。
蛮社の獄である。
“野蛮な結社”の意で、蘭学を学ぶ集団を侮蔑的に蛮社と呼んだのである。
長英はシーボルト事件後、江戸に戻り、町医者と蘭学塾を開業していた。
しかしその後渡部崋山らと幕府の異国船打払令を批判し開国を説いた角で捕えられ、終身刑の判決を受けた。
不当判決であることは論を待たない。
しかし1844年、長英は火事に紛れて脱獄。
各地を逃亡し4年後、敬作を頼って伊予に現われ、彼の紹介で宇和島藩主・伊達宗城に匿われた。
宗城は幕末4賢侯といわれた人物である。
この時期、幕府も方針を撤回し、各藩に国防を勧めるようになっていたこともあり、宗城は幕府の目を黙殺し長英に蘭学書の翻訳や、兵備の洋式化に取り組ませたのである。
束の間の平穏であった。
1年あまりの潜行ののち長英は宇和島を後にした。
江戸から、幕府が長英の宇和島潜伏に目を向けているとの知らせが届き、宇和島藩は急遽、長英を旅立たせたのである。
当然、敬作の身にも幕府の目が光ることとなった。
これほど高潔な人物が時代とはいえ、幕府から目をつけられるとは誠に遺憾といわざるを得ない。
その後、高野長英は顔かたちを変えて江戸に潜伏していたが、1850年、警吏の手がのび、命運つきた彼は自殺して果てた。
生きておれば明治維新にどれほど才を発揮したかも知れぬ逸材である。
愚かな幕政の犠牲者である。
ところで、はなしをいねに戻す。
シーボルトのむすめ、いね
シーボルトのむすめ、日本初の女医として名高いオランダおいねであるが、そのいねを女医に育て上げたのが、二宮敬作である。
いねは青い目で色白、茶褐色のちぢれ髪でどこからみても異人の子と分かる。
少女時代は近所の子供たちと打ち解けたかどうか疑わしい。
ましてや母子家庭である。
仲間はずれにされ、さぞかし悔しいおもいをしたのではないだろうか。
父と別れたのは2歳であるから、思い出とてない。
ただ母からは偉大な医学者であったと聞かされて育った。
港に船が入るたびに父が乗っていないか見に行ったというつらい時期を経て、彼女は自分も医師になろうというおもいを固めていく。
少女時代の10年余を長崎で過ごしたのち、1840年、14歳になったいねは医師をめざして四国に渡り、卯之町の敬作の元に向かった。
敬作の喜びは並大抵なものでなかった。
「父君も産科に長じたまへり。なんじも助産を専門とさるべし、外科はその第一歩なり」と諭して、蘭学・外科学を伝授した。
日本最初の女医の誕生である。
この時期、医学専門学校は存在しない。
師について学び、師の許可が得られれば医師を名乗ることが出来た。
5年間の修行ののち、敬作は19歳のいねに産科を学ばせるため、岡山にいるシーボルト門下の産科医・石井宗賢を紹介した。
ちょうど1844年、高野長英が火事に紛れて脱獄した年である。
それから6年間、いねはここで産科学を学んだが、あろうことか宗賢に強姦され失意のうちに長崎へもどったのである。
宗賢は罪に問われなかったが、同門より破門の扱いをうけることになった。
この年は江戸で高野長英が命を絶った時期にあたる。
親友を失い、愛する愛弟子を傷つけられ、敬作の怒りと失望はいかばかりかであったろう。
結局、いねは長崎で不本意ながら女児高子を出産し、またも母子家庭となった。
しかし、気丈な彼女は高子を母・滝にあずけて長崎市内の医師阿部魯庵に3年間、産科を学んだ。
この間、敬作には心落ち着かぬ不穏な日々であった。
1854年、敬作は藩の用で長崎を訪れた際、傷心のいね(当時28歳)を放っておけず宇和につれて帰り、2年間、自分のもとで仕事を手伝わせることにした。
大村益次郎
その一方で、いねは偶然、宇和島に来ていた村田蔵六(後の大村益次郎)について2年間、蘭学の講義をうける幸運に恵まれた。
高野長英を失って、困惑していた宇和島藩主伊達宗城がちょうどこの時期、長州に潜む蘭学の秀才、村田蔵六を招聘し、蘭学の講義・西洋兵学書の翻訳、さらには洋式軍艦の研究・製造を依頼していたのである。
いねの美貌にたじろいた堅物の蔵六はますます無口となり、その講義は実に厳しいものであったといわれる。
しかし気丈ないねは黙ってこれに耐え、勉学をつづけた。
学問好きのいねの素顔が髣髴とされる情景である。
こうして二人の間には、もの言わぬ分、かえって深い情愛が芽生えたといわれる。
宇和島におけるロマンスとして今に語り継がれるエピソードである。
事実、明治2年、近代兵制を確立した彼が暴漢に襲われた際、いねは横浜から直行して不眠不休の治療にあたり、彼の最期を看取ったのである。
敬作の運命はいねと田舎にとどまることを許さなかった。
宇和島藩主は長英隠匿にこだわる幕府の追及を恐れ、1857年、54歳の敬作に長崎遊学を命じたのである。
敬作はいねを連れて長崎に赴き開業。
いねは、引き続き敬作のもとで産科医の修行を続けたのである。
敬作の腕はすぐに評判となり、患者はあとを絶たなかったという。
敬作にとっていねと過ごしたこの数年間が、生涯もっとも充実した日々ではなかったかとおもわれる。
日蘭修好通商条約
1858年、日蘭修好通商条約締結によってシーボルトの追放処分が取り消され、翌年、シーボルトは30年ぶりに再来日し、滝、いね親子とともに敬作とも感激の対面を果した。
このとき感涙にむせぶシーボルトから感謝の言葉をもらった敬作は、30年に及ぶ肩の荷を降ろして安堵したことであろう。
敬作はその後長崎で病を得、1862年、シーボルトが離日するのを見届けたのち、59歳で病没した。
つねに幕府から厳しい目を向けられた生涯ではあったが、死後、正5位を贈られ面目をほどこした。