記憶に残る伊予人 近江聖人・中江藤樹 9歳で、両親と別れ祖父のもとへ中江藤樹が近江国小川村で両親と一緒に生活できたのは、10年に満たない。9歳のとき、150石取りの武士である祖父から跡継ぎに指名され、両親のもとから、米子の祖父母に引き取られたのである。その原因は父と祖父との確執... 2017.02.20 記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人 関西財界の雄 土居通夫 居合抜きの名人は、めっぽう数字に強かった土居通夫は天保8(1838)年、宇和島藩下級武士の6男として生まれた。少年期より知識欲が旺盛で、藩校・明倫館で漢学を学び、壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学んだ。さらに22歳で窪田派田宮流の... 2016.03.13 記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人 幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり) たとえばわが国が今から260年間、外国と国交を断ち、あらゆる海外情報をシャットアウトしたとしよう。260年後に会った外国人は異星人のごとく理解の範囲を越え、対応に苦慮するに違いない。伊達宗城たちが置かれた状況はこれに近い。わずかに長崎の出島... 2008.05.04 記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人 最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋 東京遷都明治元年9月、若干22歳の伊予大洲藩主・加藤泰秋は明治天皇一行の東京行幸(事実上の遷都)にあたり、その前がけ(行列の先頭)を務めることとなった。長年尊王・勤皇にいそしんできた加藤 泰秋にとって眩しいばかりの栄誉であった。明治政府は、... 2008.04.07 記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人 日本初の女医を育てた二宮敬作 シーボルト二宮敬作は仁義に篤く、礼節をわきまえ信に足る人物であった。幕末、八幡浜市保内町の寒村に住む少年がいかにしてこのような教養を身につけたのであろうか。当時、この村にも儒教の教えは浸透していたようである。しかも16歳の少年が、学問をした... 2007.06.24 記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人 国島六左衛門の悲劇 幕末の伊予大洲藩の藩収入は、たかだか蝋と和紙で、財政はきわめて逼迫していた。さらに外様大名であるため海外情報に疎く、なにかと宇和島藩に接近し情報を得ていた。一方、宇和島藩は安政3年以来、長崎に産物方をおき、交易をしている。その彼らから、蒸気... 2006.01.22 記憶に残る伊予人