居合抜きの名人は、めっぽう数字に強かった
土居通夫は天保8(1838)年、宇和島藩下級武士の6男として生まれた。少年期より知識欲が旺盛で、藩校・明倫館で漢学を学び、壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学んだ。さらに22歳で窪田派田宮流の免許皆伝を得、藩内一の居合抜きの名人といわれるまでになる。
ところが、慶応元年(1865)、坂本竜馬に感化され勤皇を志して脱藩、大坂へ旅立った。そこで運よく金貸し・高池三郎兵衛の手代に採用され、用心棒として働くことになった。ところが、めっぽう数字に強く複雑な金利計算までこなす才能を示したため、主人から金銭出納一切を任されるまでになった。
こうして高池屋に奉公していたが、戊辰戦争が勃発すると同時に、宇和島藩の糧米を大坂蔵屋敷に確保するのに奔走した功が認められ、藩主より帰藩を許された。
明治維新の後
明治維新の後、彼は大阪鎮台長官となった藩主伊達宗城のもとで外国事務係に採用され、さらに統轄責任者であった五代友厚にその異能を認められ、翌年には大阪府権少参事(副知事格)に抜擢され、破格の出世をした。そこで、英国王子御用を担当し、鉄道御用係として大阪-神戸間の鉄道敷設に尽力し、着実に成果をあげた。
ところが明治5年、司法官になっていた勤皇時代の友人・北畠治房に誘われ、土居はまったく畑違いの司法省に出仕する決心をする。それから12年、彼は地道な努力を重ねながら天賦の才を発揮し、兵庫裁判長,大阪上等裁判長,大阪控訴裁判長などの要職をそつなくこなしていた。
明治13年のことである
かつて江戸時代には両替商として日本最大の財閥となった鴻池も、維新の改革で大名が消滅すると、100以上の大名に融通していた大名貸は泡沫と化した。鴻池は莫大な損失に傷ついたまま、事業再建に苦悩していた。
鴻池10代善右衛門は事態の打開を図るべく、建野大阪府知事へ適切な人材紹介を願い出ることにした。建野が大阪商業会議所会頭・五代友厚に相談したところ、五代は即座に「土居通夫以外ありえない」と言い切ったという。
こうして、天下の鴻池から是非にと頭を下げられた土居は、「私が職務を怠るか、貴家に大損失を与えたときは、即刻解雇せよ。さもなくば終身雇用すべし」と言って、堂々とこれに応じた。
その心意気にうたれた10代善右衛門は、まだ43歳という無名の男をいきなり鴻池の大番頭に抜擢し、財界関係者を驚かせた。
こうして土居は官界を去って鴻池に入り、一族の独善的な思惑が渦巻くなか、家政改革をおこなって「鴻池家憲法」を制定するなど、鴻池の再興に獅子奮迅の働きをした。その結果、11代善右衛門に至り、鴻池は数多の企業設立に成功することになった。
時代はガス灯から電燈へ
明治20年、当時の大阪は街の照明をガス灯にするか電燈にするかで甲論乙駁し、収拾のつかない状況であった。そこで明治21年、彼は意を決して独立し、大阪電燈株式会社(のちの関西電力)を設立、以後30年にわたって社長を務めた。
この成功が呼び水となり、土居は各界から懇願され、明治紡績社長、大阪実業銀行頭取、日本共同銀行・北浜銀行・農工銀行取締役、阪鶴鉄道・伊賀鉄道・紀和鉄道・京阪電鉄重役、堂島米穀取引所理事長、大阪銀行取引所理事長、日本電気協会会長、大阪実業協会会長、毎日新聞、日本生命相談役など夥しい職務の数々を歴任した。
また、明治28年には大阪商業会議所会頭となり、22年の長きにわたって関西財界のトップに君臨した。
歓楽街への呼び水となった通天閣
さらに、明治36年の第5回内国勧業博覧会の大阪誘致に成功し、その跡地に大阪のシンボルタワーとして、パリのエッフェル塔を模した通天閣を建設した。
周囲の猛反対を押し切っての建設であったが、その後通天閣周辺には映画館、劇場などが建ち並び、大阪随一の歓楽街となった。
通天閣の命名は儒学者藤沢南岳により、土居通夫の名前を意識してつけられたといわれる。
大正6年、彼は81歳で他界するまで、じつに大阪電燈・京阪電鉄・日本生命・日本麦酒など六つの社長、取締役、また大阪商業会議所会頭など七つの公職をこなしていたという。年老いてなお、判断力、行動力に陰りをみせない稀有のひとであった。
なお明治9年のことになるが、土居はもと宇和島藩主伊達宗徳から第5子剛吉郎の教育を委託され、のちに彼を正式に養子に迎え土居家を継がせることとなった。かつて藩を見限った脱藩浪士が、藩主の息子を跡取りにするという歴史の皮肉な巡り合わせを感じずにはいられない。