記憶に残る伊予人/IYO-PEOPLE

近江聖人・中江藤樹

近江聖人・中江藤樹

近江聖人・中江藤樹

9歳で、両親と別れ祖父のもとへ

中江藤樹が近江国小川村で両親と一緒に生活できたのは、10年に満たない。9歳のとき、150石取りの武士である祖父から跡継ぎに指名され、両親のもとから、米子の祖父母に引き取られたのである。その原因は父と祖父との確執にある。

ところがほどなく藩主の国替えにより、米子より伊予大洲へ移り住むこととなった。こうして藤樹は、9歳から15歳までの6年間を、祖父母とともに伊予大洲で暮すことになった。

この間、厳しい祖父より学問の指導をうけ、わずか11歳で儒教の書「大学」を読破したという。

15歳で、伊予大洲藩士となる

ところが藤樹15歳のとき、祖父母が相次いで没したため、急きょ祖父のあとを継ぎ、中江家の当主として城に出仕することになった。

しかし15の少年の身では、いきなり大人社会に馴染むことは困難であった。城にいる間、藤樹は神経をすり減らしたことであろう。

帰宅してものんびりというわけにはいかなかった。なにしろ何人もの奉公人を召し抱えた身である。年長の彼らに必要以上に神経を使うため、家にいても身の細る思いであった。

それでも律儀な彼は、大洲藩士として恥じぬよう、わずかなミスも許さないという重圧を自らに課した。

そのうちこれが昂じて、自分だけでなく、人にも厳格な生活を求めるようになっていったという。

この求道者のごとき峻烈な自己抑制のため、彼は徐々に不安、不眠などの神経症を患うようになった。

当時の大洲藩は、さほど学問には熱心でない。なにしろ江戸幕藩体制が発足して間もない、3代将軍家光の時代である。武士は学問よりも武芸を磨かねばならぬという空気が蔓延している。

それにもかかわらず、彼の読書熱は留まることがなかった。そして周りから「孔子殿」と揶揄されるのを嫌った彼は、夜間、人目を避けて「四書大全」の原著を読みふけり、苦境から脱するため朱子学に行動指針を求めていった。

朱子学との葛藤

しかしそもそも朱子学とは、孔孟の教えを、人間関係のありかたから、宇宙全体における人のありかたへと変換したものである。「仁」を「理」(ことわり)に置き換えたといってよい。

この世はすべて絶対的な「理」によってプログラムされており、その理にしたがって生きることが正しい道である。子は親に従い、下は上に従うように決められている。その理に逆らうことは許されないというのである。

この厳格な内容に戸惑いながらも、藤樹は大洲での10数年間に、独学で四書十三経を読破し、哲学、宗教、医学、文学に精通するまでになった。
そして彼の学識を慕って集まった藩士たちに頼まれ、講義をして聞かせるまでに成長した。

朱子学は、徳川氏が身分制度を固定化し、政権安定のために採用した学問である。才の有無にかかわらず、身分の上下を崩してはならない。多分に禁欲的であり、なにかを創造しようとするのはご法度である。藤樹がそれを不自然と感じたことは当然であったろう。

27歳で脱藩し、ふるさとへ

相変わらず神経症に悩んでいた藤樹は、25歳のとき、唯一の身内であり、ふるさとで一人暮しをする母と同居したい夢を抱き、帰郷した。しかし母には知らぬ土地へ移ることに抵抗があり、移住を拒絶されてしまう。

失意のうちに帰郷の途に就いた彼は、以後喘息の発作に悩まされるようになる。明らかに武士としての生活に拒絶反応が出ていたといえる。
その後2年間、健康上の理由により藩へ辞職願いを再三提出したが、いい返事はもらえなかった。

武士をやめるというのは、身分の保証された高給取りが無給生活者に陥ることを意味し、不始末を起こさぬ限り、そのような事態が生じることはない。
それにもかかわらず、彼は早く武士の生活を捨て、ふるさとで母との落ち着いた生活を送りたいと願ったのである。

そして27歳にいたり、ついに彼は脱藩する。すべての財は置いたまま、身一つの出奔である。もし追手に捕まれば、切り捨て御免もやむを得ない。このため100日間京都の友人にかくまってもらい、捜索の手が及ばないことを確認して、ふるさとに戻ったという。

わずか9歳で両親から引き離された彼は、約20年ぶりの家庭生活に心休まるものがあったろう。その証拠に彼は放心したように、1年間を何もせぬまま過ごしたという。

私塾をひらく

その後、彼は自宅で私塾を開き、訪れるものには身分を問わず誰にでも孔孟の教えを説いた。

なかでも、親兄弟・自然に対する「まごころ」すなわち「孝」を重視し、それが発展すれば、主従が心を合わせて一国を治め、天下は平らかになる(修身斉家治国平天下)とした。

藤樹の「孝」とは、親に孝を尽くすという意ではない。

この身は天より授かったものであるから、主君・家族・朋友だけでなく、宇宙万物に思いやりをもって接しようというものである。

ところが、林羅山の唱える朱子学では、事物に潜む理(ことわり)を発見してそれに従えという。人の世はすべて上下関係で結び付けられ、下が上に逆らうことは許されない。どうもそれでは人が本来もっている「まごころ」が無視されてしまうのではないか。

陽明学との出会い

次第に彼は朱子学から離れて、宇宙全体をひとつの国家とみなすようになり、人はみな天の前で平等な存在ではないかと考えるようになった。

そして37歳のとき「王陽明全書」に出合い、それまでの疑問が一挙に氷解し、以後彼は「陽明学」の徒となった。

陽明学は、「致良知」と「知行合一」から成る。
「良知」とは、誰もが天から与えられた良心、美しい心であり、透き通った球のごときものである。

しかし、ともすれば我欲が生じてこれを曇らせるため、絶えず磨いておく必要があるという。

そのためには、日頃から和やかな顔、澄んだ目で相手に接し、人の話に耳を傾けるとともに、思いやりのある言葉をかけること。また常にまごころをもって、相手に正直であることが大切だとした。

さらには良知を働かせると共に、それを実践することが重要である(知行合一)と説いた。
性善説にのっとった行動哲学といえる。

彼の塾は屋敷内の藤の木から、藤樹書院と呼ばれるようになり、また本人も「藤樹先生」と呼ばれるようになった。本名は中江与右衛門であり、藤樹は尊称である。

藤樹は41歳という短命であったから、私塾を開いたのは14年間と比較的短いが、その間、熊沢蕃山、泉仲愛、淵岡山ら多くの俊才が育っていった。

”近江聖人”と慕われる

彼は近江の片田舎にいて、近隣の民に人の道を説いたにすぎない。しかし、慈愛に溢れた日々の振る舞いは、彼に接した多くの民衆を驚かせ、感動させたのであった。

たとえば、このようなエピソードがある。

寛永19年、加賀の飛脚が前田家の公金二百両を京都へ運ぶ途中、琵琶湖近くの宿で紛失したのに気づき、気を失わんばかりに動転した。そこへ昼間、馬へ荷を乗せて運んだ馬方が、紛失した大金を届けてくれたというのである。

飛脚は礼金を申し出るが、馬方は当然のことをしたまでと言って帰ろうとする。

不審に思った飛脚がそのわけを問うと、自分は日頃指導を受けている藤樹先生の教えを守っているだけで、至極当たり前のことをしただけだという。藤樹先生という方は、我々馬方ふぜいでも馬鹿にせず、正しい生き方について親切に教えてくださるというのである。

飛脚は多いに驚き、帰国後人々にこの出来事を語り伝えたのであった。
この時代、紛失した金が元に戻ることは奇跡に近い。だからこそ、この話が後世に伝わったともいえる。

またこんな逸話もある。

あるとき、藤樹は塾生の心を和ませようと、家の前に流れる溝に、塾生を通じて入手した鯉を放し飼いにした。すると翌朝には、誰かの手により鯉は盗まれていた。藤樹が自分の不徳のせいであると塾生に詫びると、「鯉を見れば欲しがるのは無理はありません」と笑って、もう一度鯉を運んでくれた。しかし、翌朝もまた鯉は盗まれていた。

その日、藤樹は塾生に向かって、自分たちがこの世にいるのは先祖のおかげだと感謝すること、われわれはひとりでは生きていけない、周りの人たちに助けられながら生きているのであり、他人に対し 愛敬(親愛と尊敬)の念を失ってはならないと説いた。

そして、ひとのものを盗むのは、他人から受けた恩を気づかずにいるひとで、愛敬の念を持てば盗みは自然になくなるとした。

その夜更け、現れた窃盗犯に向かって塾生は、藤樹先生が人々を楽しませようと鯉を放したこと、鯉がいなくなると先生が悲しまれること、欲しければ鯉はただで差し上げると言って頭を下げた。その真摯な態度に、泥棒も観念して去っていったという。

その後、この村には放し飼いの鯉をはじめ、ものを盗むものはいなくなり、その噂は近隣の村々で評判となった。

彼の人徳は、感動した多くの民衆の口を経て、後世の人々にも広く伝えられたため、江戸中期には世の人々から「近江聖人」と讃えられるようになった。

陽明学のその後

しかし同じ儒学とはいえ、朱子学と陽明学はある意味、対極にある。徳川幕府からは、陽明学の平等思想は身分制を揺るがすものとして危険視されたため、大きく発展することはなかった。

ところが、幕末にいたり事態は一変する。陽明学の行動原理が脚光を浴び、倒幕運動の拠りどころのひとつとなったのである。

そして、その灯りが佐久間象山・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛らによって受け継がれていったのは周知のごとくである。

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