記憶に残る伊予人/IYO-PEOPLE

最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋

最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋

最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋

京都

東京遷都

明治元年9月、若干22歳の伊予大洲藩主・加藤泰秋は明治天皇一行の東京行幸(事実上の遷都)にあたり、その前がけ(行列の先頭)を務めることとなった。

長年尊王・勤皇にいそしんできた加藤 泰秋にとって眩しいばかりの栄誉であった。

明治政府は、いきなり天皇が東京へ移るといえば関西人から猛反発を食らうに違いないと考え、東京遷都ではなくあくまで行幸であるとした。

そしていったん京都へ戻って住民を安心させ、翌年ちょっと出かけてくるからといって、そのまま東京へ住み着いたのである。

1,000年以上住んだ京都御所からの引越しは容易でなかったことが偲ばれる。

幕末の伊予大洲藩

幕末の伊予大洲藩にはどんよりと暗雲が立ち込めていた。

大洪水や風水害などの天災が相次ぎ、藩の財政が窮迫したため、11代藩主・加藤泰幹は藩士、住民に5ヵ年の倹約励行をせよと檄を飛ばし、物価引下げ、公定価格制度導入など矢継ぎ早に財政改革を断行していたが、無念にも40歳で鬼籍に入ることとなった。

そこで当時10歳だった長男泰祉が急遽後を継ぎ、健気にも財政再建や窮民救済など父の路線を継承したが、わずか10年の後、21歳の若さで夭折してしまった。

ここにおいて18歳になる弟・泰秋が兄の跡を継ぎ13代藩主となった。

折しも外国船の長浜沖出現で攘夷の機運が高まり、海防の急が叫ばれていた。

彼等兄弟は領民に対する慈しみ、自ら品行方正なること藩主の鏡というべきであり、泰秋もまた、藩士の給与削減を断行しつつ自ら倹約に努めて窮民を救済し、一方では軍備の増強にも余念がなかった。

幕末の四賢候

伊予大洲藩は幕末の四賢候といわれた伊達宗城の宇和島藩、山内容堂の土佐藩と隣接しており、朝廷・幕府に直言する重鎮に囲まれ、青年藩主泰秋はただただ彼らの後塵を拝せざるを得なかった。

しかし外様であるから、幕府への遠慮は少ない。

迷わず朝廷を中心とした尊王倒幕をかかげた。

そして薩長同盟がなると、ひそかに坂本竜馬や西郷隆盛に呼応し、鳥羽伏見の戦いに駆けつけた。

また、小御所会議においては御所の警備に参加し、戊辰戦争では甲府城警備や奥羽討伐に加わった。

この功が評価され、明治16年、子爵の位を与えられた。

ここに藩主泰秋が領民から愛されたエピソードがある。

明治4年廃藩置県が決まり、泰秋が藩知事を辞めると知った旧藩民が「殿様に残って貰って大洲を治めて欲しい」「一生苦労はさせません。残ってください」と嘆願し、暴動をおこしたのである。

結局、藩主自ら馬で駈け付け説得してことは収まったのであった。

ところがこれには余波がある。

大参事山本尚徳

知事罷免は大参事山本尚徳の陰謀であるという流言が飛んだのである。

さらに戸籍改めは外国へ借金の質として渡されるとか、種痘は血や油を取るためだとか、唐人の餌食にする為だとかいう流言を生み、それらも山本尚徳の陰謀にさせられてしまった。

山本尚徳は藩の生んだ逸材で、若くして大洲藩執政の重責を担い、明治維新の推進役として奮闘し、維新後は養蚕や茶の栽培などに腐心した。

外国語の履修を奨励し藩政改革の陣頭指揮を取っていた傑物である。

新政府が次々に布告する政策に戸惑う領民は、山本の罷免、旧制度の復活、種痘の廃止、戸籍調査の停止などを要求して喚声を上げた。

これを収拾させるため山本尚徳は自刃して任を全うした。

46歳であった。

これを聞いた農民は熱を冷まして解散し、騒動は終息した。

有名な大洲若宮騒動である。

北海道開拓推進政策

明治24年、政府の北海道開拓推進政策に同調した加藤泰秋は洞爺湖に出向き、まったくの未開地であった月浦、仲洞爺、留寿都大原(ルスツスキー場で有名)を買い上げ農場経営にのりだした。

経営面積は約900ヘクタールにもなり、道南屈指の農場主と呼ばれるまでになった。

農場経営は成功したとはいいがたいが、未開地の開拓に先鞭をつけた意義は大きい。

月浦にあった彼の別荘の跡は、現在森林浴に最適の自然公園としてつとに有名であり、彼の手がけたルスツは今やスキー場として道内一の規模を誇っている。

大正時代に入り泰秋は明治天皇に仕えた山岡鉄舟のあとを継ぎ、大正天皇の侍従として宮中に出仕した。

そして早世した父兄に代わり大正15年まで長命を保ち、81歳で没した。

title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title