イネはシーボルトと遊女・瀧の間に生まれた私生児で、当時鎖国の日本では見かけない異人の顔をしている。 すでにシーボルトは、長崎出島のオランダ商館医として5年間、日本に滞在していた。
ところが1828年、彼は日本地図の持ち出しという科で国外追放となったため、3歳になる娘イネの将来を弟子・二宮敬作に頼み、オランダへ帰国した。
イネは父の影響もあり、少女時代から医師を志した。そして14になったとき、単身、敬作のもと(伊予の宇和町)へ旅立ち、5年間医学の基礎を学んだ。さらに産科を身に着けるため、6年間、岡山の石井宗謙のもとで修業した。
当時、産婆では手に負えない難産にもかかわらず、男性医師の診察をいやがり、手遅れになる妊婦が多かった。イネはその悲劇を見るにつけ、産科を一生の仕事にしようと心に決めた。しかしその修業中、不本意にも宗謙に強姦され娘タダを産むこととなった。
イネ、学問に没頭する
この悲運を聞いた敬作は、失意のイネ(28歳)を自分のもとへ呼び寄せて、医学を研修させた。
彼女は徐々に医学への情熱を取り戻し、当時偶然宇和島に来ていた村田蔵六(のちの大村益次郎)にも師事し、父を偲んでオランダ語の習得にも情熱を傾けた。イネにとって、生涯もっとも学問に没頭した時期であった。
そしてイネ32歳の春、日蘭修好通商条約締結で再来日した父シーボルトに30年ぶりの再会を果たした。
イネは彼のおかげで、来日していたポンペ、ボードウィンから最先端の医療を学ぶ機会を得、産科・病理学に造詣を深めていった。ただし、父との関係はそれ以上、発展することはなかった。シーボルトは3年の日本滞在ののち、ひとり帰国の途についた。
おもえばこのような幕末動乱期に、母子家庭という悪条件のなかで、万難を排して医術をものしようとする姿には、鬼気迫るものがあったと推測される。
こうして30代の彼女は、産科医として当代一流の医術を身に着けていった。
明治の御代となり、イネは異母弟で外交官であったシーボルト兄弟の支援をうけ、東京築地に開業した。開業と同時にイネは我が国初の女性産科医として評判となり、医院は多くの妊婦であふれた。
40代の彼女は、産科医として生涯最も充実した7年間を過ごすこととなった。この間、彼女の技術に対する世評はすこぶる高く、宮内省御用掛をも拝命している。
医術開業試験制度という難題
ところがまたしてもイネの前に暗雲が立ち込める。明治8年、国は医術開業試験制度をスタートさせたのである。それまでは、希望すれば誰でも開業医になることができたため、医療トラブルが絶えなかった事情がある。
しかしながら、この試験制度には女性に受験資格がなかった。やむなくイネは閉院を決意し、郷里長崎へ帰ることにした。
この試験資格が女性にも開放されたのは、実に10年経った明治17年で、イネはすでに57歳となり、もはや受験できる年齢ではなかった。
それでも彼女は産婆免許をとり長崎で産院を開いていたが、62歳になり仕事を辞めて上京し、娘一家と同居することにした。
以後は東京に住む異母弟ハインリヒの世話となり、77年の余生を送った。
異人の子、女医師という二重の蔑視に耐えながら、苦学の末、高度の技術を身に着けたことを思えば、後半生には忸怩たる思いがあったに違いない。
時代の波に翻弄されたひとりといえるだろう。
我が国初の公認女性医師の登場
もう一人の女医・荻原吟子についてである。
先述のとおり、我が国では明治維新に至るまで、医師の開業にはなんら制限がなかった。というのは、よほど名医のもとで修業しないかぎり患者に信用されず、家業として成り立たたなかったからである。
しかしこれには弊害も多かったため、明治8年、明治政府は正式に医学を学んだものだけに医術開業試験制度を実施することとした。そして暗黙の裡に、女性の受験は認めないとした。これでは我が国に女医は生まれないことになる。
明治17年、その重い扉を開き、女性が開業試験を受験できるようにしたのが、荻野吟子である。
吟子は16歳で嫁いだ先の夫から性病を移されたのち、離縁されるという非運に巡り合う。しかもその治療にあたり、男性医師の前で耐え難い屈辱感を味わった結果、みずから医師となり、女性患者を救おうと決意した。
当時もこの羞恥・屈辱感のため受診を拒絶し、死に至る女性が少なくなかったのである。
そこで彼女は単身上京し、東京女子師範学校(現在お茶の水女子大学)へ入学。主席卒業したのち、教授の紹介で軍医監を通じ、なんとか私立医学校「好寿院」へ入学を許可された。ただ一人の女学生であり、多くの男子学生の蔑視のなか様々な嫌がらせに耐え、苦渋の3年間を乗り切った。
この勉学を通して、彼女は真理に触れるいい言葉を残している。
「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った。」真摯に学問に取り組んだものにしか得られない感慨であろう。
医術開業試験をめぐる難題
しかし彼女には、さらに難問が待ち構えていた。卒業はしたものの前例がないとの理由で、医術開業試験の受験許可が下りないのである。翌年も再度申請をおこなったが、東京府からも埼玉県からもなしのつぶてである。
こうして窮地に陥った吟子に、偶然、実業家の高島嘉右衛門が救いの手を差し伸べ、内務省衛生局への仲介の労をとってくれたのである。
十分な下準備をして衛生局へ出向いた吟子は、奈良時代の律令解説書「令義解」に、当時から日本にも女医がいたことが記されていると熱弁をふるった。
また、吟子に依頼を受けた石黒忠悳(のちの日本赤十字社社長)も「女が医者になってはいけないという条文が無い以上、受けて及第すれば開業させてもよいではないか」と食い下がった。その結果、衛生局長の長与専斎もふたりの熱意に打たれ、ついに受験許可が下りたのであった。
公認女医第1号となる
こうして吟子は、明治17年(前期)と翌年(後期)の試験を、4名の女性受験者中ただ一人合格し、政府が公認する我が国女性医師の第1号となった。吟子34歳の春であった。
この難局を乗り越えた彼女が漏らした言葉が今に伝わる。
「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ。」
明治18年、吟子は、本郷湯島三組町に念願の「産婦人科 荻野医院」を開業した。
しかし当時は国民皆保険制度がなく、医療費を十分払えない患者が少なくなかった。このため負担の少ない祈祷や民間療法に頼るものが多く、彼女は社会に横たわる貧困、迷信、悪習などと向き合うようになった。
キリスト教徒として活動
このなかで明治19年、彼女はキリスト教に入信し社会運動にも参加、廃娼運動にも取り組むようになった。
そして明治23年、40歳になった吟子は敬虔なキリスト教徒だった志方之善と再婚。4年後、北海道で活動する夫のもとへ移住し、そこでも開業医として活動をつづけた。そして11年後、夫が他界したため、ほどなく彼女は東京へ戻り、本所に医院を開業した。
開業して4年、吟子は胸膜炎で病床に臥し、半年後62年の生涯を閉じた。
単に女医第1号というだけでなく、診療活動のかたわら婦人解放運動にも目を向け、キリスト教徒として明治女性の地位向上に取り組んだ。充実した密度の濃い人生であったといえよう。