日本人風雅考/FUGA

芸は身を助く

芸は身を助く

芸は身を助く

はて、芸は卑賎のものか

古来、儒教国の中国、朝鮮においては、芸事は卑しいものとされ、決して士大夫(高級官僚)が手を出すものではない。士大夫たるものは何もしないのがよい。身を弄することは下賤のものにさせるのをよしとする文化がある。

これに対し我が国では、芸を極めたひとには尊敬と憧れをもって接してきたように思う。技術をもつものは敬われるべきという考えである。

たとえば平安期の「梁塵秘抄」は、若き後白河天皇が傀儡(くぐつ)なる下賤のものを宮中に呼び寄せ、喉をつぶすほど共に歌い過ごした思い出の勅撰和歌集である。

身分制にこだわる中国、朝鮮では、宮廷人が傀儡とたわむれるなど、あってはならぬと忌避されそうだが、後白河とすれば、才能あるものと歌の世界に浸りたいのに、余計なことを言うなというところだろう。

 

武士も芸事に親しむ

かくして我が国では、芸事は決して卑しいものではない、むしろ余技として大いに奨励されるべきとして、貴族、武士など支配階級を中心に広まった。

まずは和歌、連歌に始まり、田楽、猿楽、能、狂言、茶道、華道、造園、俳諧、歌舞伎、浄瑠璃へと裾野は広がっていった。

かつて鎌倉期の武士は、自分の郷里に館を構えて質素に暮らしていたが、室町期になると、守護だけでなく家臣団も京の都に住み始めたため、芸能に触れる機会が増えた。このため、武士は貴族に習って和歌・連歌を詠む会を開いたり、能、狂言を観劇するなど、京の文化に慣れ親しむようになった。

この時期、芸事を身に着けた武士として、鎌倉期の西行、室町期の細川幽斎が光彩を放っている。

西行は超エリートである北面の武士から、故あって脱俗し僧となった。そして嵯峨や鞍馬に庵を結んで聖となり、以後行脚を繰り返しながら、詠歌に励んだ。

その歌風は閑寂と気品に溢れ、後鳥羽院はことのほか西行の歌を好んだという。その結果、生涯265首もの和歌が、「勅撰和歌集」に収載されるという偉業を達成した。

また細川幽斎は室町期の戦国武将でありながら、武道は無論のこと茶道、歌道にすぐれ、唯一人の古今伝授継承者(古今集の真意を後世に伝える者)でもあった。さらには調理にも奇才を発揮し、その包丁さばきは当代一と評された。

 

庶民も芸事に夢中となる

一方庶民においては、生活の糧として、芸事を身に着けざるを得なかったものが多い。律令制の敷かれた奈良・平安期には、律令農民の家では大勢を養うだけの余力がない。青年期になると次男以下は家を出て、港湾労働者や馬借になり、女は芸事を覚えて遊女や歩き巫女など遊芸の徒になったと伝えられる。

ただ、鎌倉時代になって農地が増え、米に余りが出るようになると、家を出ていく必要はなくなる。特に室町に入ると、鉄製農具の普及で米の生産が急増し、ゆとりのできた農民のあいだに、いわゆる大衆文化が生まれた。

つまり、村人が集まって自治組織(惣)がつくられ、神社や寺などに寄合い(話し合いの場)をもちながら、友好を深めた。さらには、仏教講話などの名を借りて近隣からも人々が集って宴会を開き、芸能に親しんだ。

猿楽・狂言・連歌、茶道、華道などは、こうして庶民の間に広く浸透していった。

とくに和歌の延長線上にある連歌は、町衆や農民、僧侶、武士など異なる身分のものが、自由に発言できる非日常空間が創出された結果、爆発的に広がった。

 

そして戦国の世から平穏な江戸時代になると、商工業の発展とともに、演芸など娯楽を求めて人の往来が活発となった。その結果、歌舞伎や人形浄瑠璃、講談、落語、手品などが全国に広がり、人々の暮らしに潤いをもたらした。

それに伴い、庶民の間にも芸事を学びたいという意欲が横溢し、舞踊や三味線、小唄や浪曲、浪花節などに励むようになった。

 

芸は身を助く

こうして身につけた技芸が何かの折に役に立ち、時には生計を立てる元になることもあったという。

それを「芸は身を助く」と言ったのは、江戸時代の作家・井原西鶴である。

しかし同時に、習い覚えた芸のため本業がおろそかになり、かえって身を誤ることもあったため、「芸は身の仇」という対語も生まれた。

 

それにしても、我が国では芸事に精通すると、国から文化勲章を授与され、人間国宝にまでしていただけるという。

世界広しといえど、技芸がここまで評価される国はそう多くないように思うのだが、どうだろうか。

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