医学史ひとこま/HISTORY-OF-MEDICINE

傷ついた兵士は、兵士でなく人間である

傷ついた兵士は、兵士でなく人間である

傷ついた兵士は、兵士でなく人間である

1859年のイタリア統一戦争のさなか、スイス人実業家アンリ・デュナンは偶然、激戦地のそばを通りかかった。そして4万人もの死傷者が打ち捨てられている光景に愕然とし、町の人々と協力し、放置された負傷者を教会に収容するなど懸命の救援活動を行った。

その後、彼は「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士、その尊い生命は救われなければならない」といって、文筆を通して「負傷者のための救護団体を設立できないだろうか」という問いを投げかけていった。

まもなくその声はヨーロッパ全土に共鳴を呼び起こし、デュナンは各国から多くの援助を得て、1864年、国際赤十字組織を誕生させることに成功した。のちに彼はその功績で、第1回ノーベル平和賞を受賞することになる。

 

パリ万国博覧会への招待

ところで、当時の日本は幕府の勢力に翳りが見え、1866年薩長同盟のあと徐々に倒幕が現実味を帯びてきている。そんななか、フランス皇帝ナポレオン3世から幕府あてに、翌年(1867年)パリで開催する万博への要請と元首招請について書簡が届いた。

1867年1月将軍職についた徳川慶喜は、この不利な状況を打開できぬものかと苦慮していた。薩長に対抗するには幕府の財政はまことに厳しい。今後も軍事援助を受けるためにはフランスとの関係を親密にしておきたいと、この招待をうけることにした。

そこで、慶喜の弟・昭武が将軍名代となり、警護担当(水戸藩士)と外交担当(幕臣)のほか、書記会計係として経理に明るい渋沢栄一が選ばれた。

ほかに、将軍侍医として高松凌雲、幕府から参加の呼びかけに応じた佐賀藩からは4名の使節がいたが、その事務官長が佐野常民であった。総勢20名である。

 

常民、赤十字精神に感動す

1867年4月、パリ万博会場に出席してみると、産業革命を経た欧米の機械文明が処狭しと展示されており、200年以上国交を閉ざしてきた日本の使節団は、焦燥感に苛まれたに違いない。

ところが使節団のひとり佐野常民は、すでに3年前、国際赤十字を立ち上げていたアンリ・デュナンのパビリオン(展示室)に目が釘付けとなった。

そして「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。尊い生命は敵味方の区別なく、救わねばならない」という主張に感動する。

かつて佐野常民は適塾の緒方洪庵から、医師は身分に関係なく患者を平等に診なければならないという薫陶をうけていた。それはまさに赤十字精神と一致するものであった。

 

常民、藩主の命で理化学を学ぶ

もともと常民は、佐賀藩医の養子となり医学を志して適塾に学んだが、藩主鍋島直正より、理化学の才を買われ、江戸の伊東玄朴のもとで物理、化学、軍事学を学んだ。

以後、佐賀に戻り、藩における理化学の研究、指導者となり、蒸気船・蒸気車の雛形、電信機の製作をおこなった。さらに長崎海軍伝習所に学び、造艦、航海、砲術なども取得した。日本初の実用蒸気船は、彼の手によるものでる。

たまたま藩主より、佐賀藩を代表し、パリ万博の使節として出向くよう申し渡された。

 

1868年、常民がパリから帰朝してみると、幕府はすでに崩壊し、明治の世となっている。

佐賀藩は官軍であったから、彼は政府に取り立てられて兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに参画した。しかし薩長の陰で、十分な活躍の場は得られなかった。その後はウィーン万博を始めとする博覧会事業に関与するなかで、西欧の先進的な知識・技術を一刻も早く習得することに尽力した。

 

常民、日本赤十字社 初代社長となる

ところが、維新後10年、国内最大の士族蜂起である西南戦争が勃発。政府軍と薩摩軍の激戦で多数の死傷者が発生した。この悲惨な状況に、元老院議官であった佐野は、敵味方の区別なく傷病兵を救護すべきだと、政府に訴えた。彼の脳裏にはアンリ・デュナンの姿が浮かんでいたに違いない。

当時、敵側の傷病兵を看護するなどもっての外という声のなかで、彼の行動は次第に周囲の共感を呼ぶようになり、ついに博愛社の設立が公認された。

そして10年後、博愛社が日本赤十字社になると、佐野は初代社長におさまり、事業内容を拡大していった。

その結果、現在の赤十字活動は、輸血などの血液事業、赤十字病院の設立と看護婦の育成、赤十字ボランティアの育成と災害救護活動、国際赤十字活動など、きわめて多岐にわたっている。

 

凌雲、貧民病院の博愛主義に感動

1867年、パリ万博の使節団のなかに佐野常民とともに、高松凌雲の姿があった。

地方藩士の常民と異なり、なんといっても凌雲は幕臣である。言うに言われぬ優越感はあったであろう。しかも将軍名代である昭武お付きの医師である。

凌雲は万博会場で欧米文化の洗礼をうけたあと、留学生としてパリに残り、勉学に専念するよう言い渡された。幸運にも数年間、フランス医学を学ぶチャンスを得たのである。

彼が学んだのはオテル・デュウ(神の館)という名の医学校であった。そこで彼がまず驚いたのは、開腹による胃摘出術であった。当時の日本では漢方治療が主体で、まだメスによる開腹手術には手が付けられていなかったのである。

しかしそれより驚かされたのは、オテル・デュウ(神の館)に併設された無料の貧民病院であった。

勤務医や看護婦は、貧民患者を一般患者と区別せず、まったく同様に治療にあたっていたのである。しかもその資金は、貴族、富豪、政治家など篤志家の寄付によって維持されていた。

オテル・デュウ(神の館)では、医師は人間の生命を救う尊い職業であるという精神のもと、悩めるものには常に最良の治療をすべきであり、貧富の区別をしてはならないという教育が徹底していた。

この博愛主義は凌雲に強い衝撃を与え、以後、彼の医師人生を決定づけるものとなった。

 

凌雲、幕府の奥医師となる

そもそも高松凌雲は佐野常民と同じ農家の出身だが、3歳で武家の養子となり、さらに24で脱藩して医師を志し、緒方洪庵の適塾に学んだ。

そこで彼はすぐに頭角を現し、オランダ語に習熟して西洋医学の知識を身につけただけでなく、英学所にも出向き、英語にも堪能となった。

1865年のこと、たまたま凌雲の学才が一橋家の知るところとなり、彼はお抱え医師として迎えられた。しかもそのあと徳川慶喜が将軍職に就くと同時に、凌雲は幕府の奥医師に昇格した。

1867年、パリ万博の使節団にも、凌雲は将軍侍医として選ばれたのであった。

 

凌雲、五稜郭で敵の傷病兵を治療

幕府瓦解の知らせに、パリ留学を1年で切り上げ、1868年5月、凌雲らが江戸湾に到着してみると、すでに江戸城は開城され、慶喜は水戸に蟄居していた。

しかし敗戦を認めない旧幕府軍は、北方へ落ち延びながら、なお新政府に抵抗を続けている。

公平にみて、とても新政府軍に勝てる見込みはない。しかし、凌雲はこれまで受けた徳川家の恩に報いるため、榎本武揚ら旧幕府の残党と共に五稜郭に立て籠もった。むろん死は覚悟の上である。

箱館の旧幕府軍は敗色濃厚といえども意気軒昂で、独立国を打ち立てる意気込みである。首脳の榎本は凌雲の実力を見こんで、箱館病院の病院長を任せたいと言ってきた。もちろん傷病兵の治療が目的である。

しかし、混成の榎本軍には各隊にそれぞれ専属の医師がいる。知らぬ者の指示には従えないという不穏な空気が漂っていた。一方榎本の目も尋常でない。その熱意に打たれ、彼は「病院の運営には一切口出ししない」という条件で、病院長を引き受けた。

いずれ政府軍がなだれ込んでくるだろう。そのときは自決するまでと腹をくくった。

戦闘が始まり数日すると、農民らが数名の政府側負傷兵を運び込んできた。片足切断の重傷者もいる。病院内は騒然となり、敵兵なら殺せとか外へ放り出せとか今にも抜刀する勢いである。

その瞬間、凌雲が一喝した。「たとえ敵であろうと、負傷者は負傷者だ。私がこの者どもを入院させる必要があると考えたから入れたのだ。彼らと一緒がいやだと言うなら、ただちに退院せよ」。

しばし沈黙が流れ、そのなかで凌雲は敵方兵士の治療を粛々とおこなった。治療の後、凌雲は負傷兵を前にフランスでの体験を話して聞かせたという。西洋に学ぶべきものは学べという凌雲の言葉に、憎しみを越えた共感の輪が芽生えたといわれる。

驚くべきことだが、その後負傷兵たちは嘘のように、互いにうち解けていったという。

敵味方なく負傷者の治療にあたった凌雲の名は、戦闘中すでに新政府軍の参謀・黒田清隆の耳にも届いていた。凌雲の行動に感じ入った黒田は、榎本との和議の仲介を凌雲に頼んだ。そこで凌雲は「榎本ら首脳部を手厚く遇する」という条件で、この仲介を引き受け、五稜郭は開城、降伏した。

戦後、政府内では、榎本ら反逆者は断固処刑すべきとの声が多かった。しかし黒田清隆は有為な人材を失うことは国益を損なうと主張し、彼らを赦免するよう提言した。こうして黒田の尽力により榎本らは処刑を免れ、後に榎本は海軍大臣、外務大臣まで務めることになる。

 

凌雲、常民の申し出を断る

函館戦争の後、罪を許された高松凌雲は、新政府からの出仕要請を固辞し、町医者として、浅草新町に、医院を開業した。町医者として、フランスで経験した神の館の精神を実践しようとしたのである。

ところが1877年2月、西南戦争が勃発。

この戦いのさなか、パリ万博以来10年ぶりに佐野常民から凌雲に連絡があり、赤十字精神に基づく病院(博愛社)の設立に協力を求めてきた。

このとき常民は政府官僚、一方凌雲は市井の一開業医にすぎない。皮肉なことに、10年前と立場は逆転している。凌雲の胸に、忸怩たるものがなかったとは言えまい。

凌雲は常民の依頼を吟味した結果、中立であるべき赤十字病院を軍が設立しようとするのは了承しがたいと判断し、この申し出を断った。しかし赤十字精神を重んじることに異議はなく、何度か博愛社病院を訪れて傷病兵の治療に協力した。

この戦いのあと、凌雲は徳川家から借りた寛永寺所有の土地に、「鶯渓病院」を開院した。

病院は凌雲の名声を慕って訪れる患者で溢れたが、来院者の大半が富裕層であった。そこで彼は、貧しい病人には治療費を無料にするなどの優遇措置をおこなったが、効果はかなり限定的であった。

このため、凌雲は多くの医師が助け合って無料で診察できる組織を作る必要性を痛感した。

 

凌雲、同愛社を設立す

そこで、1878年、医師会長の職にあった凌雲は大勢の医師を前に、「我々が一致協力して貧しい病者を救うために立ち上がり、将来、貧民病院を創設する一大事業を興そうではありませんか」と呼びかけ、貧乏で治療が受けられない人々のために同愛社の設立を提案し、了承を得た。

パリでみた「医師というものは、患者に自分の全てを注いで奉仕するものであり、患者の貧富、地位の高低によって差別してならない」という博愛精神の実践であった。

こうして、同愛社は多くの医師と千人を越える篤志家によって構成され、この同愛社によって治療の恩恵に浴することが出来た貧民の数は、70万から100万人に達したといわれる。

 

常民と凌雲による博愛精神の開花

常民と凌雲のふたりは全く別の道を歩んだにもかかわらず、ともに同じ方向を目指していた。赤十字も同愛社も行き着く先は同じである。

ふたりは世間の常識という壁を克服しながら、敵味方なく、貧富の差もない博愛主義のもとで、病める人々の治療に専念した。

幕末、偶然一緒にパリに出向いたふたりの若者が、ヒューマニズム(博愛主義)の精神に触れ、帰国後、明治の日本でその精神を開花させ夥しい数の人命を救ったことは、長く記憶に留めておきたい史実である。

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