1894年(明治27年)といえば、日清戦争勃発の年であり、漱石や子規の時代である。
そのころ、海を隔てたドイツのヴュルツブルク大学では、物理学教授レントゲンが、圧力による固体や液体の物性変化の研究に取り組んでいた。そして翌年の秋ごろから、彼は放電管の実験にとりかかった。
ハインリヒ・ヘルツやフィリップ・レーナルトらによる真空放電や陰極線の研究が、当時の物理学の分野で話題を呼んでいたのである。
陰極線管とは真空にしたガラス管の両端に電極を置いて通電すると陰極線(電子線)を発生して光るというものである。
1895年11月のある日、レントゲンは陰極線管を厚紙で覆って通電したところ、放電した光は遮蔽されているのに、暗い部屋のなかで数メートル離れたところにある蛍光板が、青く光り始めたのに気付いた。
未知の光線
蛍光板に陰極線が当たっていないのに光るのはなぜか?
およそ1か月間、彼は条件を変えながらこの実験を繰り返した結果、いまだ知られていない未知の光線が陰極線管から発生して、この蛍光板を光らせているに違いないという結論に達した。
すなわち、この光線は磁力によって進路が曲がらないことから、明らかに陰極線とは異なるもので、陰極線が管壁のガラスに当たり最も強く蛍光を発する場所から主に放出され、その強度は、光線の発生点から蛍光板までの距離の二乗に反比例して減少することを確認した。
陰極線管の前に分厚い本を置くと蛍光板は光るものの弱くなり、アルミ板を置くと光はさらに弱くなった。
鉛を持って写し出されたもの
ある日のこと彼は、鉛の円板を指に挟んで陰極線管の前を遮ってみると、まったく予想だにしないことがおこった。
蛍光板に円盤をもつ自分の指の骨が写し出されたのである。
即座に彼はこの光線がもつ計り知れない価値を悟り、年の瀬も押し迫った12月28日、未知数を示す「X」の文字から、この光線を「X線」と命名し、論文を発表した。
彼はこの論文に、妻の手のX線写真を添えて提出したため、年明けには、学会発表を待たずして新聞社の大スクープとなり、またたくまに世界の話題を独占するに至った。
世間ではX線が過大評価され、家の中まで丸見えになるとか、相手の心の内まで見えるといった過剰反応をおこした。
医学界もこのX線をつかった診断技術に魅せられ、1896年1年間だけで、X線に関する論文が1000編以上も発表された。
ノーベル賞
X線の発見はそれまでの診断レベルを一挙に向上させ、医学への貢献が高く評価された結果、1901年、レントゲンは第1回ノーベル物理学賞を受賞した。
彼は、賞金のすべてをヴュルツブルグ大学に寄付したばかりか、莫大な利益を生むX線に関する特許申請をも辞退した。
さらにバイエルン王が呈示した貴族の称号も固辞し、自らにスポットライトが当たるのを忌避した。
科学の発展は万人に寄与すべきであり、特許によって個人が利益を得るようなことはすべきでないと考えたのである。
その後、彼はX線研究の世界から離れ、清貧に甘んじるも、結晶の圧電効果などの地味な研究に精を出し、77歳でひっそりと世を去った。