医学史ひとこま/HISTORY-OF-MEDICINE

ドイツ医学導入 哀話

ドイツ医学導入 哀話

ドイツ医学導入 哀話

百科事典

イギリス医学

維新がなってわずか2年、政府官吏とはいえ、ついこの間まで佐賀の下級武士であった相良知安(さがらともやす)が旧土佐藩主山内容堂に向かって、「これからはイギリスでなくドイツ医学だ」と大見得を切るほどに、世の中は変わっていない。

なにしろ維新後、日本にもたらされる西洋文化は圧倒的に英米が中心となり、学問も英語がオランダ語にとって代わっている。

医学分野においても、北越戦争で敵味方を問わず傷病兵の治療にあたったイギリス人医師ウィリスの活躍、またイギリス公使パークスによる薩摩、長州、土佐各藩への働きかけから、政府の西郷隆盛や山内容堂などは、イギリス医学を日本医学の規範にすることを決めていた。とくに容堂には京都滞在中、重病にかかり、ウィリスに命を救ってもらった恩義がある。

相良知安と岩佐純

明治2年、相良知安岩佐純は政府より日本の医学校創設に尽力せよとの命をうけ、医学校取調掛に任ぜられた。ともに脂の乗り切った32歳で、知安が医学校、純が病院の将来像を設計せよというのである。

ふたりは佐倉順天堂塾に学んだ学友で、とくに知安は塾頭を務めた俊才である。

当時の佐倉順天堂は緒方洪庵の適々斎塾と並んで、我が国蘭学塾の雄である。同門には二人のほか長谷川泰、司馬凌海、佐々木東洋などそうそうたる英才が学を競っていた。

ふたりは日本医学の将来あるべき姿について連日論議を交わした。そして新政府顧問のフルベッキから、今まで学んできたオランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳であったこと、ドイツ医学が世界に冠たるもので日本はドイツを範とすべきとの進言をうけ、これを諒とした。

確かに19世紀に入ってからのドイツ医学の興隆は目を見張るものがある。

ドイツ医学の興隆

生理・解剖学のミュラー、顕微鏡解剖学のシュワン、ヘンレ、電気生理学のレーモン、眼底鏡の開発者ヘルムホルツ、現代病理学のウイルヒョウ、細菌学のコッホ、放射線学のレントゲンなど世界的権威の枚挙にいとまがない。あのアメリカでさえ、ドイツへ留学していなければ母国で教職につけないという時代であった。

しかしながら明治政府のなかは、すでにイギリス医学採用を決定したも同然の雰囲気であった。

そこで明治2年2月、相良知安は意を決して政府に乗り込み、政府要人の居並ぶ中で上司の山内容堂に向かい、医学校取調御用の下命を受けた自分に相談もなくウイリスの雇用やイギリス医学導入が決定されるのは納得がいかぬと抗議した。

そして自説を展開してイギリス派の容堂を論破した。その身分をわきまえぬ不遜な態度に、同席した元佐賀藩主・鍋島閑叟が見かねて「知安、下がれ」と一喝し、座をつくろったという。知安はしばし平伏したまま動くことができなかった。

しかし知安の正論には誰も反論できず、同郷の江藤新平、大隈重信、副島種臣らの賛同も得て、結局ドイツ医学採用が正式決定した。

また、この一件がきっかけで山内容堂は免職となり、知安は西郷や容堂の体面をつぶしたとして、薩摩や土佐閥に禍根を残した

知安の不遜、頑迷はこのあと、自らを暗転の道へと導いていく。

知安、暗転への道

明治3年、知安は部下の不正嫌疑に連座して、土佐閥の弾正台に公金横領の容疑で捕縛された。その後裁判で冤罪が判明し、明治5年第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)の校長と文部省医務局長兼築造局長に選任されるも、翌年、佐賀の乱の首謀者江藤新平を擁護した疑いをもたれ、免職の憂き目にあう。

その後は文部省内で閑職に追いやられ、明治18年、不本意のまま失職した。

官界を去った後の彼はますます頑迷さを増し、家族と別居して芝区神明町の裏長屋に住み、ついには遊女相手の占い師に身をやつし、貧困のなか70歳でひっそりと世を去った。

一方、知安とともにドイツ医学採用に奔走した岩佐純は、政府から忌避されることなく、対照的に幸運な人生を歩んだ。

岩佐は学校権判事・文部大丞・宮中顧問官と重職を歴任し、明治5年以降30年にわたって天皇の一等侍医(宮内省大侍医)を務め、長命を得て77歳で世を去った。

ドイツ医学導入の陰に、身を焦がしつつも自滅への道をたどった若者の哀話は、今もなお語り継がれている。

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