占領されていた日本
我が国は、一度たりとも外国に乗っ取られたことなどないという人もいるが、残念ながら自分が生まれた頃、日本は外国に占領されていた。太平洋戦争の終了からサンフランシスコ講和条約締結までの7年間、米英連合軍が我が国を統治した。
国の根幹ともいうべき憲法ですら、この時、彼らから与えられたものである。故三島由紀夫が「憲法9条は戦勝国に書かされたわび証文」だと嘆いたのも、故なしとはいえない。
この時、アメリカ大統領のトルーマンは無条件降伏を盾に、日本に軍政を敷こうと目論んだ。また、占領期間中に英語を公用語にしようとしたり、さらには、日本語をローマ字化しようと画策した。かなり危うい時期を切り抜けて今日があるのだが、今の若者にその認識はないようだ。
私たちは、しばしば外国人から「君たちはいつも外国から思想を貰ってばかりで、自分たちのオリジナルがないじゃないか。思想はいつも外からやってくると思い込んでいるようだね」と揶揄される。確かに、海で隔てられた島国だったため、太平洋戦争以外には白村江、元寇と黒船来航くらいしか、身に危険を感じることはなかった。
陸続きの隣国なら、そうはいかない。昨日まで声を掛け合っていても、一夜明ければ突然襲ってくることを覚悟せねばならない。明日の安全など、だれも保障してはくれないからである。
仏教、キリスト教、イスラム教のごとき一大宗教は、民族がそれを信じないと生きていけないほど追い込まれたときに生まれるというから、我が国が宗教と縁遠かったのは当然ともいえる。
平穏無事は人々の望むところだが、そこでは思想も宗教も育ちにくいということだろう。
仏教、儒教の伝来
やっと6世紀になって百済から仏教が伝わった。
しかし伝来したのは仏像であって、教義ではない。人々を救ってくれるありがたい存在だというので、とりあえず手をあわせてご利益を願おうということになった。
その後、大和朝廷は百済を助けようとして白村江で唐軍に惨敗した。
敗戦処理のなかで即位した天智天皇は、大宰府に防人を配置して、都を難波から近江へ移し、息をひそめて唐、新羅の来襲に備えた。幸い唐が新羅と争ったため、我が国は難を逃れることになった。
さらに600年の後、元寇の役で10万の大軍が押し寄せたときも、台風のおかげで事なきを得た。神の加護を得た神国思想が芽生えたのも、むべなるかなという気がする。
漢字の導入
ところで、われわれは孤島から出る機会がなかったため、奈良時代になるまで、庶民の間に文字がなかった。当時の日本人は大目に見積もっても、400万人ほどである。話しさえできれば、文字はなくてもさほどに困らなかった。
しかし人口が増えてくると、話しだけでは皆に伝わらないし、いつまでも覚えておくことは出来ない。みんなが気持ちを共有でき、しかも記録しておけるものがどうしても必要となる。
そこで渡来人がもたらした「漢字」を借用することにした。とくに6世紀、百済から儒教、仏教が伝来してからは、貴族、役人が中心となって論語、仏典など漢字書籍の解読に取り組んだ。とはいえ、壮大な思想体系を前に、彼らは茫然と立ちすくんだに違いない。
しかし、目の前に中国人がいるわけでないから、聞いたり話したりする必要がない。ともかく読めさえすればいいのである。それ以来、我々日本人は、書物を通してのみ外国の文物を取り入れるというスタイルを踏襲するようになった。
戦後なお、英語教育が読むことに専念し、話す聞くをおろそかにしたことをみても、孤島苦の呪縛から抜け出すのは容易なことでなかった気がする。
こうして奈良時代には、漢字の意味を切り離して音だけ借りる万葉仮名が採用された。当時の歌集“万葉集”をみると、歌人たちの苦労のあとが偲ばれる。
たとえば、「世の中は 虚しきものと・・悲しかりける」は「余能奈可波 牟奈之伎母乃等・・加奈之可利家理」と著され、このような形でしか歌は読めなかったのである。当時の庶民が万葉集を楽しめたとは、とても思えない。
漢字仮名交じり文の登場
平安期に入ってやっと、漢字をもとにした表音文字(ひらがな、カタカナ)がつくられ、独特の漢字仮名交じり文が出来上がった。
当時の人々の喜怒哀楽は、およそ窺い知れぬところであったが、日本語文章が成立したことにより、後世に枕草子や方丈記、徒然草などの文学作品が残された。
そのおかげで、われわれは平安、鎌倉期の人々が、何を考え過ごしていたかを知ることができる。通読すると、なんだ今とちっとも変わらないじゃないかというのが知れて、清少納言や兼好法師がとても身近に感じられる。
1000年経っても、人は容易に変わらないのを知って、妙に安心する。
日本仏教の登場
ところで、平安期に入って唐とよりを戻した朝廷は、遣唐使を派遣して律令体制を習得させ、自国の政治体制を強化するとともに、仏僧を育成させ人民を統べ治めようとした。
おかげで、律令制は我が国に根を下ろし、奈良平安期を300年以上に渡って統制した。
また仏教は、遣唐使・最澄、空海らによって、天台、真言宗がもたらされ、我が国に多くの僧侶を輩出した。ただ、その教えは貴族階級にとどまり、庶民に普及するには至らなかった。
ところが鎌倉時代、政権が貴族から武士に移ると、僧侶の目線は庶民の救済に向かい、国産の浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗がつぎつぎに登場した。
これらはいずれも、修業はともかく、在家のままで念仏や題目を唱えれば救われるとしたため、庶民の間で爆発的に広まった。また同じころ、中国から禅宗が伝わり、武士の間に広く浸透した。
幕末武士道の登場
一方儒教は鎌倉時代以降、朱子学が禅宗寺院などで研究されたが、江戸時代には官学となり、徳川氏は士農工商の部分だけを取り出して、徳川体制の維持に利用した。
さらに、朱子学のあと知行合一を唱える陽明学が紹介され、幕末に黒船が来航すると、全国の草莽の徒が尊王攘夷を唱えて立ち上がった。たとえ独りでも、天皇を拝し身を挺して国を守るという、その激情が昇華された結果、幕末武士道が完成した。
すなわち、武士たるものは義(義理)を第一義とし、仁(武士の情け)を忘れず、廉恥と勇気を死守せよとしたため、後世語り継がれるほどに潔癖な人格が醸成された。
自分の行いが理にかなっているか、正しい行いであるかを自らに問い続け、義理を欠いたり嘘をついたと思えば、人から指摘される前に潔く腹を切った。約束は命をかけて守り、理不尽でも売られた喧嘩には必ず立ち向かい、恥をかかされれ面目を失えば、相手を斬ったのち、いさぎよく切腹して臆病でないことを示した。
欧米人が日本の武士道に憧憬の念を抱くのは、この不条理を黙って受け容れ、従容として死につく武士の姿に崇高な精神を見るからであろう。
ただ幕末武士道は人倫の道を説いたもので、決して宗教ではない。かつて多くの若者がその思想に陶酔し、尊王攘夷に身を焦がした時代が、確かにあったのだ。日本人にとって、ひとつの記念碑というべき思い出に違いない。
日本人は呑気な民族か?
古来、隣国との戦争が絶えなかった海外の人々からは、「君たちは他国の干渉を受けずに過ごしてきた稀有の国だね」と評されることが多く、それだけに、「いつも外から思想・文化を貰ってばかりじゃないか」と言いたげである。
ついでに言えば、「その呑気さは羨ましいよ」と聞こえる。
しかし、我々から見れば、僅かな期間を除いて国内抗争は絶えず、地震や台風、飢餓などに絶えず悩まされてきた。決して呑気に過ごせてきたわけじゃあないよと言いたいのだが、なかなか彼等の賛同は得られそうにない。