忌中の自粛
昨年、身内に不幸があったが、90を過ぎた大往生のため、親戚一同、ひとりとして嘆くものがない。
ところが、忌中の間は、家の中にこもって故人のために祈り、死の穢れが他の人に移らないよう、人に会うのを控えよという。さらに宴席はもちろん公の席にも顔を出すなとか、果ては身に着けるものまで地味にせよとのことである。
わずか49日の自粛とはいえ、不自由極まりない。
また、サラリーマンは忌引きといって、堂々と仕事を休んでいいが、自営のものは、そうはいかない。商売相手の機嫌を窺い、隙間を縫って仏事を営みながら、仕事を続けねばならないことが多い。
日本人の自粛
自粛という言葉は、近年、神戸をはじめ東北、熊本の震災のあとでしばしば耳にするようになった。
政府がそうしろといったわけではないが、マスコミが世間の思惑を忖度し、自粛ムードを創り出した。それに呼応して、国民の多くが被災者の気持ちをおもんぱかって、派手な行動を慎んだ。団体、企業はこぞって催し物を取り止め、派手なコマーシャルを中止した。
私たちの心の片隅には、サバイバーズ・ギルトといって、命を失う人々がいる一方で自分は生きているという申し訳なさがある。
また、被災地で懸命に生きようとしている人々、被災者のために献身的に働いている人々がいるなかで、自分は何もしていないではないかという、後ろめたさがある。
こうして、弱者にいたわりの目を向ける国民性を、多くのひとが諾とした。儒教でいう惻隠の情にあたる。キリスト教でも神は愛なりという。
したがって、その思いは全世界で共有できるのであるが、欧米諸国ではそのあとが少し違うようだ。
欧米からみた日本人の自粛
つまり欧米人に、日本人が国を挙げて自粛しているのは称賛するに値するかと聞くと、あまりいい返事は返ってこない。
本来、自粛は人にせかされてするものではない。しかもなにかをするのでなく、意識して何もしないというものである。日本のように、すべてのひとに自粛を強制するというのは本来、間違っているという。
個人の行動は誰からも束縛されるものではない。ひとりひとりが自分で考えた結果、どうするかを決めるのが重要である。ひとつに意見をまとめねばならない理由は必ずしもない。
小学校の教師に指示された生徒のように、こぞって同一行動をとらせるのは強要であって、むしろあってはならない行為だという。
まして国家ぐるみで自粛するのは、明らかにやり過ぎではないかというわけだ。つまり、日本の対応は自粛でなく、萎縮であるという。
確かに、この指摘は明快ですっきりしている。しかし、個人の自由意志を重んじると、全体の意見は容易にまとまらず、いつまでたっても、本格的な援助体制のとれない弱点がある。
世間の目を気にする日本人
一方、まわりが自粛するからやむなく従っているものにとって、自粛はよほど窮屈だろう。そこまで我慢するのは、世間の目を気にするからである。日本人ほど世間体を気にする民族は少ないといわれる。
確かに、わたしたちは、自分がどう考えるかよりも、みんなと意見が同じかどうかを気にする傾向がある。なにしろ、幼いころから我儘をいわず、ひとと協調するのを美徳として教わって来たのである。
たとえば、われわれは大勢と食事をするとき、まわりに合わせて「何でもいいです」という。メニューよりも雰囲気を大事にしようとする。ところが欧米人は、嫌いなものは嫌いと言うべきで、好き嫌いがないというのはむしろ問題だと思っている。
好き嫌いをいわないのが美徳という文化と、嫌いなものを嫌いというのが美徳という文化の差だと思われる。
仏事での自粛に辟易したのは自分だけではないだろう。仏事に限らず、今後自粛の範囲を見直す動きはあってもいいのではないか。
しかし、欧米からの指摘は指摘として、基本的に日本人の対応を変える必要はないようにおもう。