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日本の忠義

日本の忠義

日本の忠義

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武士の心構え

忠義は鎌倉時代に生れた武士の心構えである。

古来、関東平野は貴族不在とはいえ、すでに彼らの所有地である。都の貴族は関東に住む豪族(農業主)に軍備を整えさせ、住民から徴税させて安穏としていた。

ところが関東平野はとりわけ、土地の領有をめぐって紛争の絶えない地である。そのうえ、次第に平氏が貴族化し、関東支配に乗り出してきたため、地元では平氏に土地を脅かされ、混乱と不満がくすぶっていた。

この混乱に目をつけたのが源頼朝である。

源 頼朝「御恩と奉公」

彼は豪族(農業主)の支配する土地を保証(本領安堵)するかわりに、平氏打倒を目指す自分に忠義を尽くしてくれることを確約させた。このため関東の豪族(農業主)は使用人たちと固い絆を結び、武士団を形作っていったのである。

この契約は「御恩と奉公」と呼ばれ、鎌倉幕府成立の基となった。

この忠義は室町時代にいたり、影を潜めたが、江戸時代に至り復活した。

戦乱の世を制した徳川氏が、2度と下克上の世を復活させないよう士農工商を徹底させ、とくに武闘派諸将の毒気を矯めるために、「忠義」を周知徹底させた。

すなわち、武家社会では主君の命は絶対であり、理不尽であっても、甘受しなければならないとした。どうしても誤った主君を諫めねばならない場合は、自らの死をかけてでも阻止するのを是とした。ここに切腹という身の建て方が生まれたのである。

徳川氏はこれを武士道の重要な徳目に据えたが、義や仁が本人の意思によるものであるのに対し、忠義は主君のお仕着せから出たもので、本人の意思から出たものではない。

ところが、江戸時代も後半になると、忠義の対象は主君から藩つまり法人へと移っていった。幕末、長州の桂、高杉や薩摩の大久保、西郷らが主君を差し置いて政治の表舞台で活躍できたのは、この意識改革がなければありえなかった。

主君から天皇へ

ところが明治に入って、忠義はそれまでの主君や藩から天皇へ移し替えられた。

日本の天皇は世界に例を見ない存在で、他国の皇帝や国王のように、スキあらば倒して乗っ取られるということがない。人間の枠を逸脱した、冒すことのできない存在である。

そこで、国民への徳育として教育勅語がつくられ、儒教の仁義礼孝とともに、国を愛し天皇へ忠節をつくすことが求められた。

その後、明治の忠義は軍部の独善的解釈によって統帥権の乱用を招き、天皇の名のもとに、国民を対外侵略戦争へと向かわせたのである。

戦後、我が国は主権在民となり、忠義を尽くすべき相手を失った。

私と公

しかし我々日本人は、忠義を尽くす相手がいないとどうも落ち着かないらしい。

今度は、家族をさしおいても会社に忠義を尽くすこととなった。このため、子供の入学式に会社を休んで出席する父親は幾分うつむき加減となり、仕事で親の不幸に立ち会えなかった息子は、世間から手柄を立てたかのように扱われる。会社への忠義は美徳であるという気分が我々の中にあるようだ。公は私を凌駕している。

一方で、プロ野球の外人選手が妻の出産に立ち会うため、ペナントレースの最中帰国してしまうのに、驚きを隠せない。また自分をより評価してくれる会社にためらいもなく移る外国人に、どこか違和感を覚える。私が公を凌駕し、忠義が見えなくなっているからである。

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