大学に在籍したことも、研究室に在籍したこともなく、まして医学知識すらない一介のサラリーマンが、医学史上画期的な成果をあげ、ノーベル賞を授与されたという夢物語である。
話題の主、ゴッドフリー・ハウンズフィールド(1919~- 2004)は、温厚、実直を絵にかいたような人物で、周りの誰からも好意を抱かれるという点で、衆目は一致している。
第2次大戦中、彼はイギリス空軍のレーダー部門に所属していたが、終戦後、上官の勧めで工科学校に学んだ後、EMI社に就職した。
EMI社では得意のコンピューター開発部門に所属したが、ほどなくEMIは企業間競争に敗れ、撤退を余儀なくされた。
やむなく彼はそこの中央研究所でパターン認識など画像工学の研究を始めることとなった。そこで彼は戦時中研究していたレーダーを思い出し、レーダーのように人体を検索することができないかと、ひとり思案を巡らしていた。
従来、X線発生装置は一方向からだけ放射線が発生するように造られている。それでは立体である人体を2次元でしか捉えることができない。
もし放射線を多方向から当てて3次元の画像を作ることができるなら、人体の断面像が作り出せるのではないか。そうなれば、からだに潜むあらゆる病気を発見できるようになるのではないか?
アラン・コーマックの論文
そんな思案にふけっている1963年のこと、ハウンズフィールドはふとアラン・コーマックの研究論文が目にとまった。
コーマックは素粒子物理学の研究者であったが、CTの技術に興味を抱き、その土台となる理論を展開していた。しかし当時この論文に注目するひとは、ほとんどいなかった。
ハウンズフィールドはコーマックの研究理論を元に、外部から測定したデータで物体の内部構造を解明する研究を始めた。
そして、あらゆる角度から撮影した画像をコンピューター処理し、からだの断面像をつくるために、からだの周りを回転するX線装置を開発しようとしたのである。
しかしまだ誰も作ったものがなく、放射線被曝が心配される器械を、医学者でもない技術者がひとりで作ろうというのだから、無謀というほかない。
ただ誰にも邪魔されない気楽さはあったろう。上司の勧告を無視し、休日なしで連日、深夜まで製作に没頭しつづけたため、ついに上司は研究室の入り口に施錠して立ち入り禁止とし、やっと休暇をとらせたというエピソードもある。
初めての撮影
1968年、苦心の末、出来上がった試作機で牛の脳の撮影がおこなわれた。しかし、撮影に9時間、コンピューター処理に1週間という膨大な時間を要したわりに、得られた画像はきわめて不鮮明であった。研究はまだまだ道半ばで、光明のきざしは見えていなかった。
このような状況下にあって、医療機器に初めて参入したEMI社は、この山のものとも海のものとも分からぬ試みに、忍耐強く資金援助を続けた。
EMI社がこれほど寛容でいられたのは、ひとえに史上空前のレコードの売上をもたらしたビートルズのおかげである。
たまたまEMIはビートルズの専属レコード会社であったために、当時、ビートルズのレコード収入だけで会社収益の半分を占めるほど潤っていたのである。この特需のおかげで、ハウンズフィールドは試作実験を継続できたのである。
そして3年後の1971年、ロンドンのアトキンソン・モーレイ病院に試作機が設置され、牛の脳に引き続き、ハウンズフィールド自身の脳の撮影にも成功した後、脳腫瘍患者の撮影がおこなわれた。
数日後出来上がった画像には、見事に脳腫瘍が描出されており、手術を執刀した脳外科医は、手術後ハウンズフィールドに、「CTとまるで同じだったよ」といって歓声を上げたという。
その成果は翌年、北米放射線学会で発表され、またたくまに世界中に喧伝されていったのである。
当時、撮影時間は数分から数十分もかかっていたため、対象は呼吸による影響をうけない脳だけに限られていた。
その後、ハウンズフィールドはこの呼吸によるブレを防ぐため、撮影時間を20秒にまで短縮することに成功し、全身のCT撮影を可能にした。
1975年の学会でハウンズフィールドがこの成果を発表したときには、聴衆が総立ちとなって拍手を送ったといわれる。
こうして1975年、我が国にも第1号機が東京女子医大に設置されたのであった。
この発明はX線の発見以来、医学史上最大級の発明といわれ、人体の放射線診断技術を飛躍的に進歩させた。
このため、ハウンズフィールドは物理学者コーマックとともに,1979年のノーベル生理学・医学賞を授与された。
じつはこれに翻ること20年、1953年に弘前大学の高橋信次教授が世界で初めて「エックス線回転横断撮影装置」を開発し、輪切り画像の撮影に成功している。
しかし、戦後の資金のない時代、実験装置は町工場で手作りで造らざるを得なかった。しかも当時はコンピューターがなく、アナログ的な機械的装置で断層撮影するしかなかったため、普及することはなかった。時代の不運ということにつきる。
ハウンスフィールドほど、受賞前後で変わらなかったひとは珍しいといわれる。
彼は世界中から舞い込む講演依頼をことごとく断り、以前となんら変わらない生活ペースでEMIE社に出社し、淡々と研究開発に専念したという。彼の人柄が偲ばれるエピソードである。