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徳川慶喜の武士道

徳川慶喜の武士道

徳川慶喜の武士道

 

 慶喜、15代将軍に

家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。

「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう納めるか、難問山積の只中にいる。あえて火中の栗を拾いたくはない。

幕閣の諸君が、どうしてもというなら引き受けてもよいが、幕府失政の責任をとらされるのは、まっぴら御免という気分が慶喜にはある。

四侯会議の失敗

年が明けて、慶応3年(1867年)5月、薩摩主導のもと四侯会議が開かれた。第二次長州征伐停戦後の長州藩を復権させようと、「長州問題」を俎上にのせるのが最大の目論見である。

これに対し、慶喜は話題を変えるのに懸命である。なにしろ、長州藩に敗れた幕府が、いまさら長州への処分を取り下げるなどというのは、幕府の権威失墜を公に認めることになる。

それより、米英仏との約束期限が差し迫っている「神戸港開港問題」が先決であると主張した。開港できなければ、幕府への信頼は失墜するではないか。昼夜におよぶ議論の末、なんとか開港の勅許を勝ちとったものの、慶喜はかえって雄藩から、愛想をつかされることになる。

当初、幕府と手を組んで国難に当たろうとした雄藩連合は、時勢を直視せず、のらりくらりと言を左右にする慶喜を見限り、以後、倒幕を鮮明にしていくのである。

一挙に倒幕へ

同じ年の10月14日、薩摩・長州藩は秘密裏に朝廷から討幕の密勅を受けることに成功。軍事動員を始めたが、翌日、慶喜は大政奉還という奇手を打って、薩長は倒幕の旗印を下ろさざるを得なくなった。これで慶喜は先手を取って、徳川家が主導する政府を実現できるとほくそ笑んだに違いない。

ところが、慶喜の腹を読んだ岩倉・大久保らは、2か月後の12月9日、慶喜抜きで小御所会議を開き、天皇の許可を得て、幕府の辞官納地を決してしまった。

慶喜の身分を剥奪し、徳川家の領地を取り上げ、丸裸にするというのである。王政復古の大号令で二条城を追われ、大坂城に移り住んだ徳川慶喜は、薩長にしてやられたと、忸怩たるおもいであった。

しかもそれを主導しているのは、薩摩の下級武士(大久保、西郷)と宮中の下級公家(岩倉具視)である。「薩摩の芋侍が」と慶喜は、ほぞを噛んだに違いない。その後、納地は半減に緩和されたが、もはやここに至っては、辞官納地もやむをえまいと観念した。

鳥羽伏見の戦い

しかし一会桑を始めとする幕府勢力は、大阪城にあって怒り心頭、京の薩摩軍を睨みつけたままである。一会桑とは一橋慶喜(一橋)と京都守護職・松平容保(会津)、京都所司代・松平定敬(桑名)による幕府連合である。

ここで西郷が動いた。浪士を雇い、江戸市中で放火強盗をさせて幕府側を挑発。それに乗った江戸の幕府軍が薩摩藩邸を襲撃した。薩摩の挑発に対し、大阪城にいる会津・桑名の藩士も、暴発寸前である。

大阪城で静観していた慶喜は、配下のものに自制を促したが、好戦派の怒りは沸点に達しておさまらない。やむなく慶喜は、慶応4年元日、不本意ながらも薩摩を糾弾する討薩表を記し、1月3日、ついに鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされた。

朝廷に弓引く気持ちはさらさらないが、そばに控える薩摩はなんとしても排除せねばならぬという覚悟である。

慶喜、勝手な試合放棄

勝っておれば、京に入って天皇を奉じ、徳川氏中心の政府をつくる予定であったろう。
しかし、結果はわずか3日で幕府軍の惨敗となり、1月6日、一会桑のトップ3名は夜陰に紛れて城を脱し、大坂湾の軍艦開陽丸で江戸に舞い戻った。

本来であれば、指揮官たるもの、現場に踏みとどまって敗残兵をねぎらい、捲土重来を期すべきであろう。
ところが、慶喜は配下の兵に「最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と檄を飛ばしながら、一方で、彼らを放置したまま大阪城を抜けだしたのである。

錦の御旗を見て腰砕けになり、部下を置いたまま敵前逃亡した慶喜を、武士の風上にも置けないとの非難がおこったのは当然であろう。城内に残されたものの怒りは尋常でない。結局会津藩軍事総督の神保長輝が切腹し、責任をとる形で終結した。

慶喜の自己弁護

棟梁である自分がいなくなれば、幕府軍が瓦解するのは目に見えている。しかし、このまま大阪城に残れば賊軍の首領とみなされ、責任をとらされる。

なにしろ自分は鳥羽伏見には行ってないし、城内に居て指揮は執ってないのだから、責任者といわれても困る。したがって自分には、もともと戦う意思はなかったことを敵側にはっきり伝えねばならない。そのためにもここにいてはまずい。

推測される慶喜の弁明である。

「今まさに外国を相手にせねばならない時期に、日本人同士で争っている場合ではない。あのまま大坂城に籠城すれば長期戦となり、結局諸外国の介入を招くことになったであろう」と彼を弁護する声もある。

だが、慶喜は大阪城に移ったあと6か国の公使を呼んで、内政不干渉と外交権の幕府保持を彼らに承認させ、このたびの内紛には関与しない旨、約束させているのである。

慶喜、保身に徹す

慶喜の驚くべき行動はその後もつづく。江戸に戻った彼は、ただちに緊急対策本部を設け、事後対策に臨まなければならなかったはずである。ところが彼は、あっさり政権を放棄し、寛永寺に籠って謹慎し、事後処理を勝海舟に丸投げしたのである。

このあたり、彼の頭には自分の保身が最優先で、幕府や江戸市中の危機対策に考えが及んでいるとは思えない。
しかし一方で、彼が江戸で謹慎し、江戸無血開城したおかげで、外国の侵入は防げたのだから、慶喜はむしろ恩人であるという弁護論もある。

彼は頭脳明晰で、趨勢を読む抜群の洞察力をもちながら、身を捨てて幕府を救う行動はとれなかった。それは将軍就任にあたって、十分伝えていたはずだというなら、むべなるかなである。

晩年、慶喜が「ああするしか仕方なかった」と独白したということからも、最期まで自己弁護し続けていたことが窺える。
正論は述べるが実践はしない「評論家」というべき人物であって、義に殉じた吉田松陰や西郷隆盛と真逆の生き方ではなかったか。

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