伊予物語/IYO-HISTORY

20. 明治時代の伊予 (2)

20. 明治時代の伊予 (2)

20. 明治時代の伊予 (2)

1202薩長の下級武士が主導した革命政権は、自分の立場を正当化するため、江戸封建体制は誤ちであったと断罪する必要がありました。

このため、徴兵制を採用して国民皆兵とし、武士の存在価値をなくしてしまいました。

そのうえで士族を廃して四民平等とし、職業選択の自由、結婚の自由を謳い、天皇の名のもと版籍奉還と廃藩置県を断行し、全国の軍事、租税の権限を掌握することに成功します。

廃業した士族の25%は軍人・巡査・市町村の役人となり、5%は学校教師になりました。

5%とはいえ、当時の教員(26万人)の約半分を士族が占めていました。

しかし、残りの士族は商業や農業に転じましたがうまくいかず、没落する者も少なくありませんでした。

また政府は、学問こそ立身出世の源であるとして学校教育の普及に力を入れました。

このため明治の後期に就学率はほぼ100%になりました。

廃仏毀釈

さらに政府は、古代の天皇にならって神道を重んじ、神社から仏教を追い出しました。

いわゆる廃仏毀釈です。

江戸の檀家制度のうえに胡坐をかいていた仏教は一朝にして野に下ったのです。

松山藩は鳥羽伏見の戦いで朝敵とされましたが戦わず恭順し、15万両を朝廷に献上して赦されました。

また、藩主勝茂は「松平」から旧姓「久松」に復するよう命ぜられました。

明治4年、廃藩置県により伊予は松山県、石鉄県を経て愛媛県となって落ち着きました。

愛媛県初代県令(後の知事)岩村高俊は松山の藩校・明教館跡に英学所を建て、これが後に松山中学となり、漱石の「坊っちゃん」の舞台となりました。

ところで、維新政府の施策にもかかわらず、まだ我が国には憲法がなく、国会すらない状態でした。

つまり一部の政府高官が天皇の名によって独断で専制政治をおこなっていたのです。

自由民権運動

そこで政府の内部抗争に敗れ下野した板垣退助、江藤新平、大隈重信らにより政党が造られ、国会を開設し立憲政治を始めるべきだという運動が起こります。

いわゆる自由民権運動です。

最初は士族の不満が反映され、武力に訴えようとしましたが、西南戦争の結果、武力蜂起は無益であると観念し、以後言論で戦う姿勢に転じました。

自由民権運動は板垣退助を中心に土佐において勃興しましたが、その影響をうけ愛媛県でも明治10年、松山公益社という政治結社が結成されました。

ただし県民性を反映してか、官民調和を重んじた穏健な民権論が主流となりました。

その後、内部から松山自由党、海南協会が生まれ、愛媛の民権運動は着実に発展の途をたどったのです。

明治に入り、松山藩主勝茂から再度家督を譲られた定昭は子供に恵まれず、旗本松平氏より久松定謨(さだこと)を養嗣子としました。

定謨は20歳のときフランスの陸軍士官学校へ留学します。

このときのちに日露戦争で大活躍する松山藩の秋山好古騎兵大尉が補導役として渡仏しました。

その後定謨は、歩兵第1、第5旅団長を歴任、陸軍中将となり、明治17年伯爵となり華族に列しました。

久松家は教育や人材育成に尽力し、学校設立に多額の資金援助をしたり、愛媛から上京してくる学生たちのために学生寮(常盤会)を開放しました。

その第一期生に正岡子規がいます。

明治政府のアジア外交は朝鮮を最重要視し、朝鮮半島がロシアの勢力下に入ることを恐れ、朝鮮を独立させて日本の影響下に置こうとします。

しかし清は朝鮮を属国とみなしていたため、朝鮮国内の抗争に際し、両国は対立。

日清戦争

明治27年(1894年)、日清戦争が起こります。

その結果、日本が勝利し、清の朝鮮に対する宗主権は消失しました。

その結果、朝鮮は大韓帝国として清から独立することになりました。

日清戦争の後、日本は多額の賠償金と遼東、山東半島などの支配権を得ますが、満州へ進出をはかるロシアは我が国に干渉し、旅順、大連を租借してシベリア鉄道の南下政策を進めました。

さらに義和団事件以後は満州に軍隊を駐留させ、実質支配するようになりました。

この南下政策に過敏に反応した日本は、朝鮮支配に多大な影響がでることを恐れ、利害の対立したロシアとの間に明治37年(1904年)、日露戦争を引き起こします。

日本は3国干渉でロシアに屈服させられて以来、臥薪嘗胆し軍備拡充に努めていました。

その結果、陸軍は圧倒的物量を誇るロシア陸軍を後退させ、海軍は日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅することに成功しました。

しかし実際のところ、我が国にもはや戦費は残っておらず、もし戦争を継続すれば敗戦に向かうことは必至でした。

文字どおりの辛勝でした。

しかしながら日露戦争における日本の勝利は、前例のない白人に対する有色人種の勝利であり、白人の植民地支配に虐げられていたアジア・アフリカの人々を狂喜させ、民族運動へと駆り立てていったのです。

日露戦争後、アジアへの進出を諦めたロシアとの関係は協調的になりましたが、1910年に韓国を併合し、満州進出をうかがう日本と、これを警戒するアメリカとの関係は徐々に悪化していきます。

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