今から2,000年前の弥生時代といわれる時期に、中国・朝鮮から数十万から100万人ともいわれる人々(多くは難民)が日本へ渡ってきました。
縄文時代50万、奈良時代ですら400万といわれる我が国人口を考えれば、われわれの祖先がこの人たちと無関係というわけにはいきません。
その後の古墳時代(300年ごろ)に古代都市である大和朝廷が奈良県桜井市あたりに出現。
当時、全国に10万以上の大型古墳(大型墓地)があったといいますから、その数ぐらいの豪族がいたことが推測されます。
大和朝廷(畿内の大和連合)は強敵出雲・吉備(岡山)・筑紫(北九州)を次第に征服し吸収合併していきました。
仏教はこの古墳時代に中国から伝来しましたが、朝廷も地方の豪族も、信仰というより鎮護国家のために仏教を利用しようとしました。
唐と大化の改新
618年、中国に勃興した大国唐の脅威は大変なものであったようです。
この脅威におののくかのように大化の改新(645年)で全国規模の大和政権ができていきます。
都を中心に幅10数メートルのまっすぐな国道を四方へつくっていき、北九州から瀬戸内海・大阪湾・琵琶湖・北陸へと抜ける海上・陸上の幹線ルート整備など、国家らしい事業がはじめておこなわれました。
都から伊予へは大和・和歌山から舟で淡路島を経て徳島へ渡り、讃岐をへて瀬戸内沿いに今治へいたる南海道がつくられました。
しかし、その向こうの高縄山が障碍となって官道は松山まで至らず、今治が終点となってここに国府(現在の県庁)が置かれました。
そして、これより都側を道前、反対側を道後と呼ぶようになったといいます。
その後、唐が新羅と組んで百済〈南朝鮮〉攻撃に入ったのに対し、大和朝廷は思い悩んだ末、百済の救済要請を受けることにし、派兵を決定しました。
斉明天皇はすでに70近い女帝でしたが、指揮権をとるため海路北九州へ向かいました。
途中伊予の塾田津(松山近郊)・道後温泉に立ち寄って兵を募り、伊予国からも多数の兵士が加わったといいます。
このとき同乗した額田王(天智・天武両天皇の寵愛を得た麗人)による
の1首が、万葉集に収められています。
結局、朝鮮派遣軍は白村江の戦い(663年)に敗れ、百済再興は失敗に終わりました。
さらに高句麗も唐・新羅軍によって滅亡させられたため、百済・高句麗からの難民(とはいっても、日本より優れた文化をもった人たち)が多数日本へ避難してきました、このおかげで、我が国の文化水準は一挙にあがり、白鳳文化として花開くことになります。
我が国の天皇家は、中国の皇帝支配を磐石なものにしている律令をまねることで、自分たちの全国支配をゆるぎないものにしようとしたのです。
こうして701年、大宝律令が完成。
710年には奈良に遷都し(平城京)、藤原鎌足の息子である不比等(ふひと)政権が発足し、律令制の実施が徹底していったのです。
律令体制と崩壊
律令体制というものは、一言でいえば奴隷制というべきものです。
つまり、6歳になれば国から無料で土地を与えられますが、一生その土地から離れてはならず、天候の順・不順にかかわらず、死ぬまで税(稲)を取り立てられるというものでした。
ことに成人男性には、1年間都の警備と3年間北九州の警備(防人)という非情な任務に加え、長期の兵役・強制労働が課せられていました。
このため、政府に女性と偽って申告したり、私度僧(政府の許可なく僧侶になる)になって納税を免れたり、土地を放棄して浮浪民になる人があとを絶ちませんでした。
伊予から土佐の山中へ逃げたひとたちは、谷川の水をくみ上げて山の急斜面を水田化するという重労働に耐えてでも自宅に帰ることを拒否しました。
律令はそれほど過酷なものであったのです。
農民をすべて国家の所有としたこの制度は、こうしてわずか50年で崩壊し、貴族・寺院らによる私有地(いわゆる荘園)が登場していくことになるのです。
奈良政府は稲の収穫量と国の広さから日本を大国・上国・中国・小国に分けました。
このうち伊予の国は、奈良からみれば比較的近く親しみやすい国であり、稲の収穫量も多かったため、上国の扱いをうけていました。
伊予はそれまでの国造制から評制に変わり、湯評(温泉郡)、久米評(松山)・宇和評(宇和郡)などが置かれました。
このうち、松山市久米・来住(きし)に本拠をおく久米氏は伊予国の中心的存在であったようです。
まもなく評は郡と改称し、宇摩・新居・周敷・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多・宇和の14郡に分けられました。
驚いたことにこれらの名称の多くは現在もなお、愛媛県の各地で使われているのです。
奈良時代作成された戸籍によると、当時の日本の人口は400万人ほどで、このうち伊予の人口はわずかに7~8万人ほどでした。
しかもその大半は東予・中予に住み、南予はかなり過疎であったようです。
現在の愛媛県の人口(150万人)から考えて、ずいぶん寂しい農村風景が浮かんできます。
歩く以外に交通手段のなかった人々の多くは、おそらく数百人ほどの小社会で一生を終えたことでしょう。
奈良時代は遣唐使によって唐から国際色豊かな文物がもたらされた結果、華やかな貴族文化(天平文化)が花開きました。
古事記や日本書記などの歴史書、万葉集などの和歌集がつくられたのもこの時期です。
また奈良の朝廷は仏教熱が盛んで、仏教興隆策をとったため奈良には大寺院がつぎつぎ出現し、同時に広い荘園を所有するようになりました。
このため僧侶が政治に絶大な発言力をもつようになり、これが貴族間の勢力争いや地方での国司支配の腐敗をひきおこしていったのです。
桓武天皇が奈良を見限り、遷都しようと決意した背景はこのようなところにあったのです。
* 当サイトに掲載された文章・写真・データ等の無断転載はご遠慮下さい。