われわれ日本人がもった天才と呼ぶにふさわしい人物といえば、どうしても空海の名を挙げざるを得ない。ひとりで真言密教を構築して高野山に一大密教教団を組織し、京の東寺、奈良の東大寺の別当を兼ねながら、密教理論に多くの著作を残した。
また、書・絵画・彫刻・建築・土木に精通し、詩文を作るに飽き足らず、入門書「文鏡秘府論」と辞書「篆隷万象名義」を著し、我が国最初の学校「綜芸種智院」を造り、個人の人生としては信じがたいほどに多彩で完璧な足跡を残した。
その生き様は唯我独尊ともいえる自信に溢れ、天皇を前にしても、宗教界全体を前にしても臆するところがない。それだけに終生、周囲から羨望と同時に、脅威と妬みを買ったに違いない。
三教指帰
空海が62歳で入定するとき、弟子たちに言った言葉がある。「自分は兜率天の弥勒菩薩のそばに侍するために行く。お前たちを兜率天より見守り、56億7千万年ののち弥勒菩薩がこの地に下生するとき、ともに下ってくる」。
それはすでに40年前に著した「三教指帰」のなかで、自分の分身である仮名乞児(かめいこつじ)に言わせている台詞に相当する。おそらく終生、彼はそう信じて疑わなかったものと思われる。
いったい空海を仏教徒といっていいのかという声がある。
釈迦と空海の違い
この世は苦痛に満ちたもので、解脱をひたすら追求した釈迦とは真逆の人生肯定派であり、釈迦が否定した現世利益を正当とする。しかし、空海自身はそれを、釈迦の考えを一歩前進させたものと考えていたようである。
18歳で奈良の大学寮へ進み、律令国家のしくみや法令を学ぶ明経科に進んだ空海は、国家レベルの高等官養成所に身を置くことになった。
ここでは、中国の経書『周易』『尚書』『孝経』『周礼』『礼記』『論語』などの注釈をひたすら暗記していくのである。漢籍に盛られた思想については論じない。
抜群の記憶力をもつ空海はこの程度の内容に飽き足らず、『文選』などの詩文も手を出し、浄村浄豊らから唐語会話を学び、臨書にも親しんだ。
これがのちに入唐した長安において、彼の存在を飛躍させる元となる。
空海19歳
空海の時代、奈良の南都六宗が日本全体を支配している。官寺は王朝安寧を願う場でもあるが、大乗仏教の「唯識」や「中観」を講じる学問所でもある。
大学寮に通うかたわら、官寺のひとつ大安寺を訪れた空海は、そこで仏教世界を体感することになる。
漢籍と経学に行き詰まりを感じていた空海は、三論の権威、勤操に提示された『倶舎論』、『成唯識論』、『中論』などの大乗経典に目を奪われ、夢中になって読みふけるのである。
そして19歳になった空海は、ある日突然、将来を約束された高級官僚への道を断ち、わずか1年で大学を去り、乞食同然の私度僧になってしまう。空海に絶大な期待をよせていた両親や一族の落胆はいかばかりであったろう。
自由の身
以後5年間、彼は自由の身となって大安寺や西大寺などに出入りし、膨大な経典を読み漁るうち、ふと周りを見渡してみると現実の南都六宗はどうであろう。
経典はすべて漢人の解釈を唯一無二として、いかに理解するかに四苦八苦している状況である。自分のことで手一杯で、民を構っている様子など微塵もない。
そのうち空海の並外れた能力に驚いた密教僧が、そっと彼に虚空蔵求聞持法を伝えたという。
虚空蔵菩薩とは密教仏であり、無限に広がる宇宙そのものであり、虚空蔵菩薩にすがり、真言を百日間かけ百万回唱える修業をこなせば、あらゆる経典を記憶、理解して忘れなくなるというのである。
真言は咒(しゅ)ともいい、呪い、まじないの力をもつ。この修法に通じれば、宇宙をも動かすことができると空海にささやいた。
密教に憑かれた空海
彼は憑かれた様に求聞持法に没頭する。金剛・吉野や大峯・熊野などの山岳に入り、精神を集中して真言を唱える修行に邁進する。
想像を絶する荒行にもかかわらず、思うような成果が出ない。
ところがそののち、室戸岬の御厨人窟(みくろど)に籠もって求聞持法をおこなっていたある日のこと、口中に明星が飛び込み、空と海が光り輝く神秘体験をするに至る。この衝撃的な事件のあと、自身を「空海」と称するようになったという。
しかしこの時期、彼が会得したのはあくまで密教の断片である。したがって、いまだ密教の全体像は把握できていない。
このため仏前に誓願し、われに不二の法門を示したまえと祈ったところ、夢のなかに、求める経典は「大日経」であるとのお告げがあらわれたという。
実際には、だれかから、ふとそんな噂を耳にしたのであろう。そしてついに大和の久米寺で、この密教聖典というべき大日経を探し出し、歓喜するのである。
大日経との出会い
大日経では、釈尊でなく「大日如来」と呼ばれる毘盧遮那仏が密語でもって説法するという。仏教に似て、非なるものという感がつよい。
密教の歴史はさほど古くはない。空海の時代より2,3百年前、インドにおいて釈迦の没後、勢力を失った仏教がヒンズー教原理を取り入れなんとか生き残りを図った新宗教である。
したがってインド土着の匂いが漂い、呪術の薫りをもつ特殊仏教である。しかも門外漢には漏らさぬ秘密の教えであるとして「密教」と呼んだ。
密教はこの世を知恵と慈悲にあふれた世界であるとし、宇宙全体を大日如来(毘盧遮那仏)の創造物あるいは大日如来そのものとした。
大日経では、修行者が手で印契を結び(身密)、真言を唱え(口密)、仏の心境(心密)になることによって(三密瑜伽という)、大日如来と一体となって、そのまま法界に入れるというのである。法界に入るとは即身成仏を意味する。
空海にとって、修業によって直ちに即身成仏できるという理論は、余程魅力的であったに違いない。彼が呪術的臭いをもつ密教に敢えて近寄っていった理由は、まさにそこにあるだろう。
24歳
ところが24歳で『三教指帰』を書き上げたのち、31歳で遣唐使船に乗り込むまでの7年間、空海は世間から消息を絶つ。
その間、彼は密教の求める山岳修業と大日経の読解に没入していたものと推測される。
なにしろ肝心要の真言はサンスクリット語で記されているのである。『大日経』は漢語で書かれてはいるが、真言を心底より理解するには、サンスクリットの修得が避けて通れないのである。
7年後の長安において、空海は般若三蔵らに念願のサンスクリットを本格的に学ぶのであるが、そのとき彼は、すでに当時の日本人としては最高レベルまで習熟していたようである。
入唐以来、空海が一躍、歴史の表舞台に登場してくる様は、劇的なショーを見る思いがする。
彼は、自分がいつ、どの場面で登場するのが最も効果的かを、舞台裏からじっと見つめている。その綿密な計算には、後世の我々もしばし言葉を失う。
入唐、流浪民から国賓へ
たとえば、遣唐使船が福州に漂着した際の空海の行動についてである。一留学生である空海は、中国側の冷遇に対しひたすら無言を通すのである。
軟禁が長期に及び、乗船員120名に命の危機が迫り、遣唐大使、藤原葛野麻呂が学生身分の空海に頭を下げるのを待ってはじめて筆を執る。
このとき、彼が記した奏上文は唐の大官が唖然とするほどの見事な駢儷体で標されており、これをもって一転、彼らは流浪民から国賓の待遇をうけるのである。中国が文をもって人を判断する国であることを空海は熟知していた。
さらに長安に入ってからの空海は、密教の最高権威・恵果との接見を故意に引き伸ばしている。
当時の中国では自前の道教が主導的地位にあり、インドからやって来た密教は斜陽にあった。西域の不空三蔵がもたらした密教は恵果に引き継がれたのち、継承すべき人物を失いつつあった。
恵果のもとには千人もの弟子がいたが、残念ながら彼には意中の後継者がいなかった。彼はすでに老い、しかも病を得ている。
空海がこのへんの事情を知っていたのかどうか。彼は恵果に会うため入唐したはずである。
それにもかかわらず、ただちに恵果に会うつもりはない。長安において自分を最大限評価させるのを待ち、恵果から自分に会いたいと言わせようとしている。
事実、長安の文壇において空海の唐語、詩作、書はどれをとっても、一流文人から感歎の声がもれるほどであり、わずか半年で彼は文壇の寵児となった。
また密教に対する造詣の深さも、宿泊する西明寺の僧から逐一恵果に伝わっていたらしい。空海の思惑通り、満を持して出向いた青竜寺で、恵果は空海に会うなり、よくぞ来てくれた。直ちに灌頂をせむ、と言って歓喜したという。
帰国からの演出
帰国してからの空海の戦略も、長安のそれと同じである。彼は1年間筑紫にとどまり、容易に入京しなかった。
朝廷の許可がおりなかっただけとは素直に思えない。なぜなら僧侶の人事権をもつ僧綱所は南都六宗の僧の手にあり、空海とは良好な関係にある。彼は京で自分の名声が膨らんでいくのを見計らって、上京している。
が、それも大阪近郊にいて、ただちに京へ入らない。さらに2年近く、持ち帰った密教の整理をしながら時を過ごし、朝廷から是非にと請われて入京した。
しかも南都仏教を味方につけ、目前の敵、最澄と対峙する作戦である。このあたり、空海の演出は心憎いばかりである。
中国密教の失速と苦労
空海が長安を去ってほどなく恵果が世を去ったため、中国密教は失速し、もはや正統な密教は空海に託されたのも同然となった。
ところが空海が恵果から灌頂をうけた密教は、いまだ理論的に完成されたものとはいえなかった。空海が大変であったのは、そこから独力で「真言宗」と言う密教概念を創作しなければならなかったことである。
空海は我が国既存の仏教を思い切ってひとまとめにし、顕教と呼んだ。それは、誰でも読めば分かるというほどの意である。
これに対し、密教は感覚が重要である。自分が宇宙に同化し、宇宙の真理たる大日如来そのものになるという実感を目標とする。その高尚な精神性から、「十住心論」を著して、密教こそ顕教に勝る仏教の最高到達点と断じた。
最澄と空海
比叡山延暦寺の頂点に立つ最澄が、若き空海に頭を垂れて密教を学ぼうとしている。
最澄は、密教とて経典を読めば理解できると信じているが、空海は、密教は肌で実感するもので、読んで分かるものではないという立場にいる。
後年、最澄と袂を割るのは、この認識の差が解けなかったことにあるといえよう。
その後、彼は表向きは鎮護国家を祈るため、実際には密教の修業道場を創設するべく、高野山の開創を嵯峨天皇に願い出て、その許可を得る。
42歳
42歳で高野山を賜った空海は、標高1000mの山中に伽藍建立という難工事にとりかかる。が、予想通り資金や労働力の確保は容易なことでない。
その苦悩のなかで、彼は真言密教を整理して密教理論を組み直し、矢継早に著作をものするのである。
まず、「弁顕密二教論」を執筆し、顕教に対する密教の優位を述べる。密教では言葉だけでなく真言で表現ができ、修業により生きたまま悟りが得られる。
現世を苦とする顕教に対し密教はこの世を輝けるものとし、無限の宝はなんじ自身のなかにあると説いた。
また、「即身成仏義」のなかで、輪廻を繰り返して涅槃に到るのでなく、宇宙原理を把握できれば、ただちに仏の境地に到達できると説いた。
さらに「声字実相義」(しょうじじっそうぎ)では、声を出して唱える真言や、陀羅尼と文字で書かれたサンスクリットや経文こそ宇宙の実相を示しているとし、「吽字義」(うんじぎ)では、阿字で始まり、吽字で終わるサンスクリットの呪文「陀羅尼」は、全宇宙の存在を示す神秘の文字であり、吽字を字相と字義の二方面から解き明かした。
代表作といわれる「十住心論」では、人の心を10段階に分け、儒教的境地から小乗仏教、大乗仏教へと順に、法相、三輪、天台、華厳の境地を経て、最後に真言密教の境地に至るとした。
51歳
51歳になり、彼は朝廷より東寺別当に任じられる。ついに朝廷は真言宗を護国仏教として公認したのである。
以後、東寺は真言宗の拠点となった。もはや空海が都にいるということが、朝廷にとって安堵となった。
年老いた空海が都の煩わしさから解放され、高野山に戻れたのは死の前年、61歳になってである。
余談になるが、空海が弘法大師と呼ばれるようになるのは、彼の死後90年を経て、醍醐天皇より諡号(しごう)を贈られてからである。
高野山奥の院の2キロにわたる参道沿いには、全国から集められた何十万もの石塔が立ち並び、壮観である。
それを推進したのは、高野聖と呼ばれる半僧半俗の人達で、僧侶からは雑用人ほどの扱いしかうけていない。
にもかかわらず、彼らは高野山の復興資金を得るため、全国を巡って弘法大師の奇跡を語り、大師が入定している奥の院に納骨すれば必ず救われると説いて、寄進を募った。その結果、奥の院には無数の石塔が建ち、全国各地に弘法大師伝説が広まったのである。
1000年を経てなお、弘法大師はわれわれを霊場へとおもむかせる。空海、もって瞑すべしであろう。