我が国は過去に天下を二分する国内戦を3度、経験している。
1度目は源平合戦で、東の源氏が西の平氏を打ち破っている。これを機に、実権が貴族から武士へ移譲され、武家政権が誕生した。
2度目は関ヶ原の合戦で、やはり家康率いる東軍が光成率いる西軍を打ち負かし、その後、全国統一に成功。近世の幕開けとなった。
3度目は明治維新における戊辰戦争で、薩摩長州を中心とする西軍が徳川将軍家の東軍を圧倒し、近代日本が誕生した。
つまり人々は、それまでの「藩の住民」という意識から「日本国民」という意識を初めて持つに至ったのである。
これらの合戦を吟味してみると、どうも日本人としてあまり自慢できような話しは出てこない。すなわち合戦に際しては、いつも相手の裏をかく作戦が模索され、それが勝敗を決する要因になっている。
源平合戦では平家側の阿波重能が寝返り、一挙に源氏側に勝利が傾いた。
関ヶ原では、小早川秀秋らが寝返り、わずか1日で東軍の勝利が決した。
明治維新を迎えるにあたっては、幕府の意表をついて長州と薩摩が手を結び、一気に倒幕へ突き進んだ。しかも岩倉具視の陰謀による王政復古のクーデターで幕府の息の根を止めたといわれる。これは敵の裏をかいた一種の騙しである。
水面下交渉により、すでに勝負はついていたという見方もできる。
裏工作から武士道へ
こうしてみると、我が国では政争を始めあらゆる業界の紛争に関し、裏工作が常套手段として定着してきたようにおもわれる。
その流れにブレーキをかけようと武士道が形作られていくのは、こういう反面教師がいたからという気がしないでもない。
戦闘後の捕虜の処遇についてみるのも興味深い。
我が国では戦闘が終わると、互いに兵士の数は減っているはずなのだが、戦勝側の兵力は自然増となっている。
つまり、捕虜はそのまま敵側の兵士に組み込まれていることになる。いったん捕虜の身となれば、最前線で働くのを厭うわけにはいかない。それは古今東西捕虜の宿命であるといえる。
問題は捕虜本人の意識である。
寝返りと玉砕
西洋の軍律には、捕虜になった場合にも任務解除はされず、隙を見て収容所を脱出する義務がある。そのため、苦難を廃して脱出に成功すると、ヒーローとして迎えられる。
これに対し、日本の捕虜には脱出の義務はない。それどころか意外にも、捕虜になった途端、相手方のために骨身を惜しまず尽すくせがある。
ひとは誰でも食事を接待してくれれば、謝意を表し、そのひとのために何かできることはないかと、考えるものである。
しかしそれにしても、日本人が捕虜になると簡単に寝返り相手方のためによく働くという事実を、多くの海外史学者は理解に苦しむという。単に自分の身の保全を考えてか、一宿一飯の恩義を感じてか、自国指導部への反発からであろうか。
我が国には、捕虜になるくらいなら死を選ぶという精神があるではないかという声もある。
しかしこれは昭和16年、軍部が戦陣訓として兵士に、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と洗脳したことによる。
それまでの日本に玉砕という思想はなかった。日本人がもった憎むべき思想といえる。