治天の君
現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。
院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権力者の意である。
上皇のなかでもとくにその名をとどめるのが後白河上皇とその孫、後鳥羽上皇である。ともに異色の上皇といっていい。
若き日の後白河上皇
後白河上皇は平安末期のひとで、朝廷にあった政治権力が武士に剥奪される熾烈な時代を生きた。歴代天皇のなかで最も過酷な運命のひとりといえる。
ただ若き日の彼に天皇の目はなく、それもあってか政治に無頓着で破天荒な生活に明け暮れた。
宮中のしきたりを無視して、傀儡、白拍子、巫女など下層芸人を手元に招き入れ、今様を楽しむ。そのうち、乙前(おとまえ)という傀儡の老女に師事し、免許皆伝をうけるまで上達した。今様とは平安時代に流行った七五調の民謡である。さらには白拍子を囲って周囲のひんしゅくを買った。当然ながら父や兄からも、天皇の器量なしと、烙印を押されていた。
宮中の冷ややかな目をよそに、後白河は彼らを通して全国の歌謡を集め、梁塵秘抄の選者となった。
隣の儒教国・中国や朝鮮では、士大夫が身分の低い芸人と接することはありえず、最高権力者が歌謡の編集に携わることも考えられない。儒教社会では、芸を卑しいものとみなし、身分の高いものが手を出すことはなかったからである。
我が国は中国から律令を取り入れても、儒教国家にはなっていなかったことを示している。
今様に明け暮れていた後白河に、政争の間隙をぬって突如、ショートリリーフの役が飛び込んできたのである。こうして腰掛けの約束で天皇の地位についた後白河であったが、まったく予想外の長期政権を手にすることになる。
平清盛との抗争
保元の乱で義兄・崇徳上皇の勢力に勝利した後白河天皇は、わずか3年で約束通り息子の二条天皇に地位を譲り、上皇となる。しかしその後、二条天皇を擁する勢力と対立するようになり、平治の乱が勃発する。いずれも朝廷貴族や武士勢力を巻き込んだ政争であり、後白河はこの戦いにも勝利するが、実権を掌握したのは武力集団の長・平清盛である。
以後、後白河上皇は武力を背景に無理難題を迫る清盛と、つばぜり合いの日々を送るのである。そして二条天皇亡き後、本格的に院政を敷いて藤原摂関家や寺社勢力を牽制。その後、出家して法皇となり密かに平家討伐の密談をすすめるも露見し、計画は失敗に終わる(鹿ヶ谷の陰謀)。このため清盛によって幽閉され、院政も停止の憂き目に遭う。
しかし後白河はこれを耐え忍び、清盛が死去するとふたたび政治の表舞台に返り咲き、平家討伐を影から操るのである。
そして安徳天皇が平家に連れ去られた後、後白河院は安徳天皇の異母弟・後鳥羽天皇を強引に即位させたのである。そして新たなライバルとなった源氏との神経戦に入っていく。
源頼朝との抗争
後白河は政治に疎い義経を検非違使に任じて、頼朝・義経兄弟の対立を引き出し、策略にかかった義経を利用して頼朝討伐の院宣を出した。
だが、頼朝はしたたかであった。平氏滅亡後北条時政を上洛させ、義経逮捕を名目に守護・地頭の設置を強行し、一気に全国の政治的、経済的権益を掌握しようとした。
この敏速な行動には後白河法皇もなすすべがなく、事実上、鎌倉武家政権が実現するのである。
ただし、鎌倉政権が守護、地頭をおいて権力を掌握できたのは東国であって、西国は依然として朝廷の力が強く、しばらくは幕府と朝廷の二頭政治が続くことになった。
こうして頼朝は、義経と奥州藤原氏を滅ぼした翌年初めて上洛し、後白河法皇に謁見した。このとき頼朝は征夷大将軍を望んだが、後白河はこれ以上武士に権力を持たせまいとして、頑として首を縦に振らなかった。結局、頼朝が征夷大将軍を拝命したのは、その2年後、後白河が66歳の生涯を閉じた後である。
日本国第一の大天狗
後白河院は権謀術数を駆使し、保元、平治の乱をはじめ、源義仲への平氏追討、源頼朝の追討、源義経の追討など目障りな存在があると、その都度対立勢力を利用して討伐させ、朝廷権力を保持した。
全盛を誇った平清盛を幾度となく激怒させ、失脚の憂き目に遭っても、そのたび不死鳥の如く蘇り、源頼朝には「日本国第一の大天狗」と唸らせた傑物であった。宮中の抵抗勢力や源平武家勢力からみれば誠に厄介な存在であったに相違ない。
こうして頼朝上洛により朝廷と鎌倉の関係は修復され、30年後の承久の乱までかろうじて保たれるのである。
後白河上皇お気に入りの孫 後鳥羽天皇
後鳥羽天皇は、後白河のあと4代を経て僅か4歳で天皇となった。後白河法皇お気に入りの孫である。木曾義仲に追われた平家一門が安徳天皇を連れて都落ちしたため、京に天皇が不在となり、急遽白羽の矢が立ったのである。
後鳥羽天皇は幼少より利発で気性が激しく、和歌、管弦、書画に堪能であるばかりか、弓道・相撲・水練など武芸にも通じ、刀剣の鍛造も自らおこなった。
また自身の持ち物に菊の御紋をつけさせたため、以後これが皇室のシンボルマークとなった。
1198年、後鳥羽は長男・土御門に天皇の位を譲り、以後、土御門、順徳、仲恭と天皇3代23年間にわたり、上皇として院政をしいた。
彼は後白河が苦手とした和歌に堪能で、和歌所を復活させて、藤原定家らに勅撰和歌集「新古今和歌集」の制作を命じる一方、武芸に優れた者を集めて西面の武士を設置し、北面の武士とともに鎌倉に向き合った。
そのうち鎌倉では源氏将軍がわずか三代で途絶え、幕府は執権北条氏が実権を握るようになった。
幕府は皇族を将軍に迎えようと後鳥羽上皇に打診したが、拒否されたため、頼朝の妹の曾孫である当時2歳の九条頼経が鎌倉に迎え入れられた。頼経は、摂関家トップ九条兼実の曾孫でもあり、兼実の弟慈円(天台座主)は頼経が将軍として鎌倉に赴くのを、公武協調の切り札と考え期待を寄せた。
しかしこの経緯を通して、朝廷と幕府の間にはしこりが残った。
最大の誤算 承久の乱
もともと後鳥羽院は、鎌倉が政権を朝廷から奪い取ったことに対して強い憤りを持っており、隙あれば倒幕を窺っていた。
しかも内裏の建造費用や、後鳥羽院の寵姫(ちょうき)の所領問題など、自分をないがしろにする幕府の態度に業を煮やしていたのである。
そうしたなか、内裏守護の源頼茂が西面の武士に殺害される事件がおこる。頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を察知したためと噂された。
朝幕間には不穏な空気が漂い、緊張は次第に高まっていた。そうした中、慈円は朝幕関係を壊そうとする朝廷側の挙兵に反対し、道理をもって日本史を論述した「愚管抄」を著し後鳥羽上皇を諫めようとしたが、徒労に終わった。
1221年、後鳥羽院は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の武士を招集し、そのまま挙兵。北条義時追討の院宣を発した。
後鳥羽院は自らの威光で、全国の武士は朝廷につくだろうと楽観視していたが、目算は狂った。人生最大の誤算といえる。
頼朝の妻・北条政子の演説で一致団結した鎌倉武士団に諸国の武士が合流し、20万もの大軍となって京へ攻め入り、わずか1ヶ月で朝廷方は完敗した。いわゆる承久の乱である。
隠岐の島へ流罪
乱後、首謀者・後鳥羽上皇は隠岐の島、3男順徳上皇は佐渡島に配流された。以後、後鳥羽院に拘束されていた西園寺公経が内大臣となり、幕府の意向を受けて朝廷を主導することとなった。
後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となる直前、出家した。そして20年に及ぶ配流生活を失意のうちに送り、60歳の生涯を閉じた。
ただ終生攻撃的な性格は変わらず、強気な和歌作りに勤しんだと言われる。
その激しい語気が、今も彼の無念を彷彿とさせる。