天台宗寛永寺と浄土宗増上寺
家康は江戸に幕府を開くにあたり、京都の朝廷に対抗して天台宗の大寺を建立しようと計画し、家光によって東叡山寛永寺が完成した。最も権威ある天台宗・比叡山延暦寺を意識してのことである。
家康自身は浄土宗であるから、これを天台宗と同格に引き上げ、芝に増上寺を移転して将軍家2大寺院とした。
こうして歴代将軍の墓地は、天台宗寛永寺と浄土宗増上寺が交代で受け持つこととなった。
家康、家臣の離反に苦慮す
翻って家康20歳のころ、浄土宗はすでに旧仏教と妥協し、穏健になっているが、一方、浄土真宗は念仏一途で、阿弥陀如来を思いつめること尋常でない。
ところで、家康の三河松平家は浄土宗であるが、家臣の半数は浄土真宗の門徒で、一向一揆に加担し意気盛んである。主君とは一世限りの付き合いだが、阿弥陀如来は未来永劫の救世主である。どちらかにつけと言われれば阿弥陀さんにとなる。
若き家康は離反した我が家臣と戦いながら、彼らの懐柔に頭を悩ませた。その結果、家康は一揆が収まったところで戻ってくれば、お咎めなしとした。
処罰なく元の身分を保証するというのは、当時の倫理観では考えられぬ決断である。まかり間違えば我が身を滅ぼしかねない寛大な処置によって、かえって家康は信頼を得、三河家臣団の結束は一段と強固になったといわれる。
厭離穢土・欣求浄土を旗印に
さて、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれたとの一報が入ると、義元の人質として前線にいた家康は身の危険を感じ、松平家の菩提寺・大樹寺に逃れた。
しかし信長軍の追撃が迫り切腹を決意した家康に、住職の登誉が言い聞かせたというのが浄土三部経からの一節「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の経文である。
穢れたこの世を厭い、離れたいと願い、欣(よろこ) んで浄土にいくことを切望するとの意である。さらに転じて、平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すというのである。そしてそれをなすのがお前の仕事だと諭されたのである。
この危機を脱した家康は以後、戦場に「厭離穢土・欣求浄土」と染抜いた旗を押し立てた。
仏の加護をうけたわが軍は必ず勝つ、またたとえ死んでも必ず極楽浄土へいけるのだといって、味方を奮い立たせたのである。
元和偃武の世に
こうして関ケ原の合戦、大阪冬の陣、夏の陣と、家康の陣には厭離穢土・欣求浄土の旗印がはためいたのである。そして1615年、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡したあと、家康は元号を元和と改め、応仁の乱以来150年続いた戦乱の世の終息を宣言した。
これを「元和偃武」という。偃武(えんぶ)は武器を伏せて用いないという意で、事実、こののち250年にわたってわが国は戦乱なき世を謳歌するのである。