大政奉還という奇手
倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。
無論、最大の敵は欧米列強ではあるが、国内の覇権争いも熾烈である。目下の敵は徳川氏である。実際、大政奉還したあとも、幕府の政権運営は依然として続いている。
八方ふさがりの大久保
さらには難物の主君・島津久光公がいる。穏健な家老・小松帯刀が病に伏せた今、自分が直接久光公と対峙せねばならない。ついこの間まで、薩摩では拝謁すら叶わなかったかたである。下級武士である自分が政権の中心にいることを快く思うわけがない。ひょっとすると、新政権にとってもっとも難敵は薩摩藩かもしれない。
天皇親政への道筋
ところが慶応2年、孝明天皇のあとを継がれた若き天皇(のちの明治天皇)は、若干15歳、年中宮中の公家に取り囲まれ、生まれて一度も京から出たことがないという異様な環境にいる。
突然の先帝崩御のため、いまだ帝王学を学んでおられない天皇に、自分の目で世の中を見ていただき、日本を統治する絶対君主を目指していただきたい。
公家のための天皇ではなく、国民のための天皇であっていただくためには、まず実権を握る宮中勢力から天皇を引き離し、玉簾(ぎょくれん)のなかに閉じこもらず、国民の前に出ていただく必要がある。
そのためには、天皇が京を出られ遷都されることが天皇親政のスタートになると、大久保は考えた。
大阪遷都を目論む
大久保は、「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するためとして、遷都の必要性を説いてまわったが、保守的な公家からは薩長の私権であると見なされ、一蹴されてしまった。
その後、ほどなく江戸城が無血開城され、上野戦争も局地戦で終了したため、江戸市中は無事戦火を免れた。このため同年5月、倒幕勢力は江戸に新政府を樹立して江戸を東京と改称、この年を明治元年とした。この時期、東北は今なお戊辰戦争の只中にある。
前島密の東京遷都論に感服
彼は天皇が日本の統治者であることを知らしめるため、大阪行幸に引き続き、東京行幸(東幸)を目論んでいた。むろんその先には東京遷都を見据えている。
それによれば、大阪は経済の中心地であり、水運にも優れ、地勢的には問題がない。しかし北海道を入れると日本の中心地は東京になる。
これに対し、大阪は鳥羽伏見の戦いで大阪城が落城し、政府機関も一からつくらねばならない。それに大阪は経済の中心地で、遷都しなくても衰退しないが、東京は幕府でもっていたから、政治を取るとたちまち廃れてしまうというものであった。
そしてなにより、新政府の金庫は空であった。
東京行幸から東京遷都へ
遷都計画には当然ながら、公卿や保守派、京都市民から反対の声が挙がった。そこで大久保は、決して遷都ではなく天皇の威光を示すためだとして、明治元年9月、総勢3300人を擁する東京行幸を実施した。
そして、先帝の三年祭と立后の礼を行なうため、年内にいったん京へ戻り、宮中および京都市民の動揺を鎮めるのに腐心した。そして翌年、戊辰戦争の終了したあと、王化が行き届かない関東以北に新政を施すためとして再度東行を実施した。これが事実上、天皇の東京遷都となった。
皇居に入った明治天皇の治世は45年に及び、大久保の願ったとうり、欧米列強の侵略は未然に防がれたのであった。
しかし、残念ながら明治11年、大久保は不平士族の襲撃をうけて暗殺され、明治の世を見終えることはかなわなかった。