家康、武田旧臣を召し抱える
家康は、それをそっくり若干21歳の井伊直政に預けた。
直情型の直政にはうってつけである。なにしろ赤備えは、全身を赤く染め上げた甲冑で身を覆う。戦場では際立って目に付くため、相手には威嚇となる反面、標的にもなりやすい。それだけに選りすぐれた精鋭部隊が選ばれた。赤備えは勇者の称号であった。
井伊の赤鬼
途中入社ながら、徳川四天王と称されるまでになったのは、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという気迫が彼を支えたからである。
井伊直政の才覚
家康は武田滅亡の後、北条との所領交渉という大役をわずか21の直政に任せ、成功裏におえている。肝の据わった直政の武者ぶりが見て取れる。
しかし彼がその才を最も発揮したのは、関ケ原の前哨戦である。彼はまず黒田長政を調略して徳川方に引き入れた。そして、これをきっかけに長政を通じ、小早川秀秋、吉川広家をはじめとする豊臣恩顧の大名を、つぎつぎに調略していったのである。
直政は単に直情型の男でなく、じっくり相手の意向を聞いたうえで、粘り強く相手を説得する忍耐力を兼ね備えていた。それだけではない。関ケ原戦のあと、石田三成の助命を嘆願しつつ、三成に家康への忠誠を誓わせたり、自らに銃弾を放った島津家との外交交渉まで担当し、温情厚き男の一面もみせた。
しかし戦場での奮闘によるつけは、決して小さくなかった。結局、関ケ原で島津から受けた傷が元となり2年後、わずか42歳の若さで世を去ることになったのである。
颯爽と赤備えで登場し、錐もみのように戦国の世を突き抜けた人生であった。
井伊直孝、彦根藩30万石の大名に
将軍秀忠の近習として仕え、大阪夏の陣では木村重成と長宗我部盛親軍を打ち破った。直孝に対する秀忠の信任はことに厚く、臨終に際し、3代将軍・家光の後見役を託されるほどであった。
また、日光東照宮に将軍名代として参詣する役目は、直孝より井伊家のみに許される御用となった。
直孝以降、井伊家は彦根藩30万石の大大名となり、江戸時代を通じ、大老6名を輩出する譜代筆頭の名門となった。
以後幕末に至るまで、彦根藩の軍装は足軽まで赤備えを揃え、黒船来航のさいにも赤備えで警備にあたった。
井伊直弼、桜田門外に散る
安政の大獄で100名を越す一橋派を粛正された水戸の尊王攘夷派にとって、井伊直弼の暴挙は許しがたいものであった。その反作用が桜田門外の変である。
襲われた井伊直弼は被害者でありながら、彦根藩には予想外の重い負担がかけられた。
なにしろ60人の護衛者に対して、尊攘派水戸浪士らは20人に満たない。しかし、不意を突かれ、直弼の首級を挙げられた。
しかし、これに対する幕府の処分は厳しかった。殺害された護衛藩士は、身を挺して主君を守ったとして家名存続が認められた。しかし生き残った護衛藩士のうち、負傷者は主君を守れなかったとして切腹、恐れをなして逃げた者は斬首となった。彦根藩自身も10万石の減封処分を命じられたのである。
赤備えの時代の終焉
本来赤備えは、接近戦において相手を威嚇したのであるが、鉄砲が主役になると夜目にもそれと分かるため、格好の標的にされる次第となった。もはや赤備えの時代は終わったのである。
しかも、ミニエー銃を装備した長州藩に対し、火縄銃の彦根藩では勝負にならなかったといえる。
安政の大獄以後、冷遇の憂き目にあった彦根藩が、一橋派の慶喜率いる幕府を快く思わなかったのは当然であった。
そんな中、突如として将軍慶喜が大政奉還を断行し、それに対して討幕派が王政復古を宣言する。
譜代筆頭・彦根藩が幕府を見限る
13歳で直弼のあとを継いだ16代藩主・井伊直憲は、幕府を見捨てたことで、なんとか動乱の幕末を乗り切ることに成功した。