かつて南都北嶺といって、その威風は朝廷から一目置かれるほどであった。
南都は奈良、といっても興福寺、北嶺は比叡山延暦寺を意味し、ともに平安時代、寺院でありながら圧倒的な存在感を示した。
なぜ寺が、と言われそうだが、じつはともに巨大な荘園領主であった。そのため多数の僧兵を擁して武力を備え、朝廷に強訴しては無理を通した。
南都六宗
本来、南都は奈良時代の都・平城京であるが、聖武天皇が頼ったのは鎮護国家をめざす国家仏教六宗であり、南都六宗と呼ばれた。平安京の二宗(真言宗、天台宗)と対比するため、後世そう名付けられた。
このうち今に残るのは、興福寺の法相宗(開祖・道昭)、東大寺の華厳宗(開祖・良弁、審祥)、唐招提寺の律宗(開祖・鑑真)の三宗のみである。
興福寺 大和一国を支配す
興福寺が実力を蓄えたのは、権勢を誇った藤原氏の氏寺であったためである。
とくに平安時代には、春日大社、さらには大和一国の荘園をわがものとした。
そもそも荘園は平安時代には貴族が、鎌倉時代以降は武家が支配したが、大和一国だけは興福寺の支配が続いた。豊富な資金をもって兵力を蓄え、武家の侵入を阻止したからである。
つまり中世は、貴族、武家のほかに興福寺、延暦寺などの寺社勢力で、権力を三分していたといえる。
法相宗の唯識論
その興福寺の法相宗についてである。
今から1300年もの昔、孫悟空で知られる三蔵法師こと玄奘三蔵が、戦乱による唐の都の荒廃を憂い、17年に及ぶインド求法の旅に出たのである。想像を絶する艱難辛苦の日々であった。しかしそのおかげで、インドから「唯識」なる思想が中国にもたらされた。
さらにそれが我が国に伝わり、法相宗となった。つまり、法相宗は唯識という“心のありよう”を問う宗教である。むしろ哲学的気分が強い。
その昔(2000年前)、インドには民衆を救おうとする大乗仏教が興り、龍樹らによって「般若の空」が説かれた。しかしこれでは、この世にはなにも存在しないと虚無的になる風潮が現れたため、「唯だ(ただ)識(こころ)だけはこの世に存在する」という唯識論が登場した。
さらに進んで、「心のありようで、世界はどのようにも見える」、つまり「この世にあるものはすべて心がつくりだしたものである」と結論づけた。そのうえで、意識を変革することによって迷いから悟りに至ろうとした。
インドにおける大乗仏教思想の頂点をなすといわれる。
唯識論は興福寺にある有名な肖像彫刻のモデル、無着と世親兄弟によって体系化された。
特に弟の世親は唯識論の大成者といわれ、「天親菩薩」と尊称された。後世、親鸞は自分の名の「親」を天親菩薩からとったといわれる。
唯識の無意識論
唯識では、あらゆる存在が八種類の認識によって成り立っているという。すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感に加え、意識と上下2層の無意識(深層意識)からなるとする。
この2層の無意識論は仏教史に新たな視点を灯した点で、大いに特筆されるべきであろう。
フロイトが無意識の研究を始める千数百年前に、すでにインドで2種類の無意識が論じられていたことになる。
末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)
ところで唯識では、心の深層に無意識の領域があり、末那識(まなしき)と、その下に阿頼耶識(あらやしき)があるとする。
末那識とは、自我に執着する心である。だれもが無私の心をもつことは容易でない。たとえば、ボランティア活動に熱中すればするほど、心底にある自己満足の存在に気付き、はっとする。この自我執着心が末那識である。
阿頼耶識とは、知らず知らずのうちに蔵に蓄積された心である。蔵は、人それぞれが思ったこと、喋ったこと、行ったこと、この3つの行為を一つずつ丁寧に収めた、膨大な貯蔵庫だというである。したがって蔵の中は千差万別で、一人として同じものはない。
そしてそれが善き行いで満たされておれば、善因善果といって幸運をもたらし、悪しき行いであれば、悪因悪果といって不幸に陥るという。
人はしばしば迷いの種子によって悪しき行いに手を染め、悪循環を繰り返している。しかし、感謝の心を忘れず善行の種子を植えなおせば、縁起の理法に気付き、阿頼耶識は浄化されて悟りへの道が開かれるという。
縁起とは因縁生起の略で、この世のあらゆるものは原因(因)および条件(縁)によって生じているという思想である。
すなわち法相宗は、自分の存在を否定し、「この世のすべては心がつくりだしたものである」という考えを追究して悟りを得、無我の境地に達することを目的とした教えである。
したがって、他の仏教宗派にみる葬礼儀礼には無関心で、檀家ももたない。
興福寺の衰亡
平安から戦国期にわたって隆盛を誇った興福寺であったが、全国制覇を遂げた織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地で所領わずか2万石に減じられた。しかし細々ではあるが、江戸時代を通じ、興福寺はなんとか命脈を保った。
ところが、明治維新の神仏分離令によって、史上かつてない存亡の危機に瀕した。江戸年間を通じ、寺請制度による僧侶の横暴への怒りが爆発し、庶民がつぎつぎと寺院を襲ったのである(廃仏毀釈)。興福寺も例外でなく、寺院は破壊、荒廃の憂き目にあった。
しかも、それまで支配していた春日大社との立場が逆転し、興福寺の僧侶は春日大社の「神官」となることを強要されるはめとなった。
さらに境内の塀が取り払われたため、寺は奈良公園の一風景となってしまった。
しかし廃仏毀釈の嵐が過ぎ去った後は、興福寺も徐々に復興を遂げ、薬師寺と共に法相宗大本山として、現在に至っている。