“時雨”は初冬。
晴れていたかと思うと、いきなりサアーッと通り過ぎていく通り雨。
句を読むには、寒々として気が萎えそうだ。
ただ、時間の要素を入れ、“朝時雨”、“夕時雨”、“小夜時雨”(さよしぐれ)など、声に出すとよい響きである。
にわか雨は“驟雨”(しゅうう)ともいい、雨宿りすればすぐ晴れてくる。
逆に“地雨”(じあめ)は、いやになるほど、しとしと降り続く雨である。
春先には、濡れるのも心地よいというほどの霧をふいたような雨を“小糠雨”(こぬかあめ)といい、霧雨(きりさめ)というより情趣がある。
さらには、“ひそか雨”といういきな言い方もある。
桜が咲いたのに降りかかる雨を“桜雨”、“花の雨”といい、雨で桜が散る風情を“桜流し”と呼ぶ。
“春霖”(しゅんりん)は響きのよい言葉であるが、春の長雨であり、春になったというのに、ぐずつく冷たい雨である。
また、4月になって菜の花が咲くのになお、雨がしとしと降り続くのを“菜種梅雨”と呼ぶ。
まだ春だというのにという、うんざりした気分がある。
“翠雨”(すいう)は青葉を濡らす雨で、限りなく透明感がある。
“青葉雨”ともいい、“緑雨”、“麦雨”、“甘雨”よりも好まれそうだ。
“走り梅雨”は梅雨ではない。
5月後半、もう梅雨かとおもわせるぐずついた天気である。
菜種梅雨同様、疎ましい気分である。
梅雨は旧暦5月に降るところから、“五月雨”(さみだれ)とも呼ばれ、このため昼間でも空が暗くなったのを、“五月闇”(さつきやみ)という。
梅雨の終わりころ、雷雨を伴い、まとまった雨が降ることがあり、“送り梅雨”と呼ばれる。
さらにやっと梅雨が明けたと思った途端、雨がぶり返すことがあり、“戻り梅雨”とも“返り梅雨”ともいう。
夏の夕立ちは、空を見上げると、一方で晴れているのに、片方で雨が降っているということがしばしば見られる。
古来、“狐の嫁入り”とか“日照雨”(そばえ)と呼ばれ親しまれている。
“村雨”(むらさめ)は夏から秋にかけ、群れになってザーッと降るにわか雨。
響きがよく、雨後の草木の香りが漂ってくる気分がある。
春霖に対し、秋の長雨を“秋霖”(しゅうりん)と呼ぶ。
“私雨”(わたくしあめ)は自分の周りだけに降っていると感じていたい、そんな情緒的な雨。
さらに“遣らずの雨”は恋人を家に返したくないという情感こもった雨。
雨に対する先人の思い入れは深い。