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ウイーン紀行

ウイーン紀行

ウイーン紀行

jojooff / Pixabay


30年ぶりにウイーンを訪れた。

「ハプスブルグ」というスイスの一豪族が、600年以上もオーストリアを支配したという由緒ある地である。

ウイーンに中世の大都市をイメージして行くと、意外に狭いのに失望する。

当時大都市といっても、人口は10万から15万だから、外敵から身を守るために城壁で街を取り囲んだ「リング」の内側は、歩いて用が足せるほどの市街地である。

ウイーンに着くと、まずシェーンブルン宮殿に行こうという。

30年前もそうだった。

それほどにこの宮殿はウイーンを代表するらしい。

シェーンは美しい、ブルンは泉で、「美しい泉」の意である。

オーストリアの国母といわれるマリア・テレジアによって、今日の壮麗な容姿となった。

皇帝家族も普段は市街地の王宮に住んだが、夏になると郊外、つまりリングの外にあるこの離宮で避暑して過ごしたという。

1440室の白い壁面には金箔が施され、6才のモーツァルトがマリア・テレジアの前で御前演奏をしたという「鏡の間」や、ハプスブルク王朝終焉の間となった「青い陶器の部屋」が印象深い。

マリア・テレジアは今なお、かの地のヒロインである。

中世のローマ帝国というべき神聖ローマ帝国の皇帝だと思いがちだが、そうではない。

女性ゆえにそれはかなわず、皇帝位はもの静かな夫に任せた。

ただし実権はテレジアにある。

神聖ローマ帝国とはいかにも大上段に振りかざしたような名だが、ドイツ王国のオットー1世がマジャール人の侵入を撃退し、ローマ教皇ヨハネス12世を守った功績で、神聖ローマ帝国と名乗るのを許されたことに由来する。

現在のドイツを中心にオーストリア、チェコ、北イタリアあたりの有力諸侯による「国家連合」というほどのものである。

その後、1273年に、割拠するドイツ諸侯が自分たちが意のままに操れるという目算で、弱小貴族のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に祭り上げたのである。

ルドルフはこの好機を捉えて地盤固めに専念し、オーストリアを本拠にハプスブルク家の礎を築いた。

確かに神聖ローマ皇帝は、かの国家連合の議長にすぎず、特権があるわけではない。

しかし対外的にはこの上ない栄誉と権威があり、15世紀以降400年間、ナポレオンにより神聖ローマ帝国が廃止されるまで、ハプスブルク家が皇帝位を独占した。

ハプスブルク家はオーストリア、ハンガリー、ボヘミアを地盤に、政略結婚を重ね、16世紀には現在のオランダ、ベルギー、北フランス、スペイン、ポルトガル、チェコ、スロバキア、北バルカン半島、西ポーランド、西ロシア、ブルガリア、ルーマニア、さらに南アメリカ、フィリピンにまで広がる、一大帝国の支配者となった。

しかし17世紀にいたり、30年にわたる宗教戦争の結果、カトリックはプロテスタントに屈した。

その結果、ハプスブルク家は権力を削がれ、カトリックの後ろ盾である神聖ローマ帝国の権威も失墜した。

このためドイツでは、各地方の領邦国家がそれぞれ独立割拠するようになり、なかでも北ドイツを本拠とするプロイセンのフリードリッヒ1世は強力な軍事力を背景に、ドイツ諸侯のなかで頭角を現し、その子フリードリッヒ2世によって、啓蒙主義を取りいれた絶対主義国家を完成させた。

一方、いったん権威の失墜したハプスブルク家であったが、1683年、オスマントルコのウイーン急襲を撃退し、ハンガリーを奪還したため、かろうじて権威を保った。

こうしたなか、1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が急逝し、23歳のひとり娘マリア・テレジアが帝国のかじ取りを任されることになった。

この機に乗じ、近隣諸国は虎視眈々と領土を狙っている。

案の定、プロイセンのフリードリッヒ2世がオーストリア領に侵攻した。

亡父は娘に帝王学を伝授していなかったが、テレジアはただ者でなかった。

彼女はオーストリア軍の戦費が枯渇しているのをみて、ハンガリー議会に乗り込み、捨て身の演説でハンガリー貴族の心をつかみ、軍隊と資金の援助を得ることに成功した。

彼女はボディーランゲッジを駆使しながら、言葉の通じない兵隊を鍛えあげ、プロイセンに対抗できる軍隊を養成した。

以後、テレジアとフリードリッヒ2世は20年にわたり宿命のライバルとなる。

彼女はフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人(政治的実力者)、ロシアのエリザベータ女帝と女性3人でプロイセンを包囲し、フリードリッヒ2世を締めあげた(彼の女嫌いを皮肉って3枚のペチコート作戦といわれる)。

そして徴兵制度の改革に乗り出し、農民の子弟でも入隊すれば生活を保障したため、オーストリア軍の士気は格段に上がった。

彼女は教育の向上にも目を向け、全国に小学校を新設して義務教育を実施した。

また裁判所を行政機関から独立させ、病院を建設して医療制度の刷新をはかった。

さらに有能な人材を登用して住民調査をおこない、官僚制度を強化し中央集権制度の確立に努めた。

テレジアの夫フランツ1世は20年間、神聖ローマ皇帝の位にあったが、物静かに発言を控え、政治は妻に任せて、表舞台に立つことはなかった。

ただ、武器や馬、軍服の支給、財政管理などの実務に才覚を発揮した。

テレジアは国家経営の合間に16人の子を出産するという離れ業をなしとげたが、さらに子育ては部下に任せるという慣習を破り、自ら育てるという超多忙な人生をおくった。

感染症による死亡率が高い時代のため、16人の子のなかで丈夫に育ったのは10人である。

長男ヨーゼフ2世は多分に母親の性格を継承した。

彼は母親を敬愛していたが、父の死後も独立を認められず、皇帝となってもなお、母の監視下で共同統治するという苦痛を強いられた。

権力は依然としてテレジアの掌中にあった。

ヨーゼフ2世はボルテール、ルソー、モンテスキューの著作に親しみ、迷信や無知蒙昧を廃し、理性の光を当てるという啓蒙思想に感銘し、人民の幸福を国家目的として捉えた稀有な皇帝であった。

そして母の死を待ちかねたように、矢継ぎ早に内政改革を断行した。

その内容は、農奴制の廃止、農民のための土地税制改革、信教の自由、貴族・教会の特権の排除、商工業の育成、学校の設立など枚挙にいとまがない。

彼は貴族に従属していた農民を皇帝の管理下に置き、絶対主義をより強固なものにしようとしたのである。

これで農奴は奴隷から市民になり、カトリックとプロテスタントの死闘は終焉を迎えた。

また出版の自由を認め、検閲を廃止したため、ルソーの思想やハイドン、モーツアルトの音楽が自由に楽しめるようになった。

さらに裁判を公開にし、拷問、死刑を廃止した。

彼はたった10年の治世のうちに、6千の布告と1万1千の法律をつくって世を去った。

オーストリアはヨーゼフによっていち早く中世を脱し、近世に入ったといえる。

しかしこの改革は複雑な国内事情を無視して拙速に過ぎたところがあり、彼の死後いったん途絶えることになる。

18世紀末、フランス革命とそれにつづくナポレオンの侵攻でヨーロッパ全土に激震が走った。

1806年、ナポレオンにより神聖ローマ帝国は解体させられ、長い歴史に幕を下ろしたのである。

以後、ハプスブルク家はオーストリア皇帝という肩書きだけを頼りに生き延びねばならなくなった。

1848年、フランツ・ヨーゼフ1世は18歳でオーストリア皇帝に即位し、以後68年もの長きにわたって皇帝位を務めたが、この間普墺戦争によってプロイセンに敗れ、ドイツは統一国家となってオーストリアと分離した。

また国内の諸民族に独立の機運が高まり、ハンガリーに譲歩し二重帝国の形をとらざるを得なくなった。

そして1916年、第1次世界大戦のさなか、ヨーゼフ1世が世を去り、終戦とともに、650年にわたるハプスブルク帝国は滅亡した。

以後、オーストリアはこじんまりした共和国として生まれ変わり、第2次世界大戦で一時併合されたナチスドイツから決別し、永世中立国となった。

良くも悪くもオーストリアとハプスブルク家は一心同体で、命運を共にしたといえる。

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