海外紀行/KAIGAI

プラハ紀行

プラハ紀行

プラハ紀行

1552036 / Pixabay


霧にけぶるモルダウから望む冬のプラハは、音も色も息を潜めたかのごとく、ひっそりしている。

2度にわたり世界大戦の戦禍を逃れたこの街は、中世を手付かずに残して、訪れるもののノスタルジーを誘うに十分な風情である。

街の案内をしてくれたK氏は、プラハ生まれで、いわゆる「プラハの春」(1969年)を少女時代に経験している。

当時共産党第1書記だったドプチェクが自由化、民主化を口走ったとたん、ソビエト戦車がプラハの街に押し寄せて彼を拘束し、あえなく「プラハの春」は終息した。

以来20年間、チェコの住民はソ連の目を気にしながら、冬の時代を過ごすほかなかった。

自由な発言は厳しく取り締まられ、まわりに目を配りながら本音は小声でそっと囁く日々だったという。

当時の思い出を尋ねると、間髪を入れず「とにかく、ものがなかった。」と述懐した。子供心に食べるもの、着るものに欠いた日々を苦渋の面持ちで語ってくれた。

住居は国から与えられるが、安普請である。労働は国よりノルマが課せられ、増えることはあっても減ることはなかった。

彼女の両親は共に病院の医師だったが、職種によって賃金が変わらないため、重労働にもかかわらず、決して楽な生活ではなかったという。

西欧に対する憧れはあったが、鉄のカーテンが引かれて以来、電波もシャットアウトされ、西欧情報は容易に入って来なくなった。東欧諸国での行来はあったが、西側への旅行は決して認められなかったという。

1985年に入って、ゴルバチョフが政治経済の硬直化を打破するため、ペレストロイカをスローガンに、外交の緊張緩和と東欧諸国への統制を撤廃すると宣言した。東欧のひとびとは喝采を叫び、それに機に鉄のカーテンは揺らぎ始めた。

とくに東西に分断され、監視、抑圧され続けた東ドイツの住民は、なりふり構わず西ドイツへ向かおうとした。

1989年の夏、ついにハンガリー政府は半信半疑で集まってきた東ドイツ市民をオーストリアから西ドイツへ流入させ始めた。

これをみてチェコもまた、東ドイツ市民の西側への輸送を開始した。30年間耐え忍んだ東ドイツ市民は、雪崩をうってプラハへ向かった。

K氏によれば、当時、チェコの西ドイツ大使館には旅券を求める東ドイツ市民が殺到して異様な雰囲気だったそうだ。

彼らは乗り付けたトラバントを放置したまま、一目散に西ドイツへ向かったという。しばらくプラハの街には乗り捨てられたトラバントがいたるところに見られたらしい。

その光景はまさに壮観でしたと、彼女は当時を懐かしんだ。

同年、11月10日のベルリンの壁崩壊のニュースは、プラハでも歓喜をもって迎えられた。これに勇気づけられたハヴェルら反体制派が「市民フォーラム」を結成。連日国民総出でデモやストライキ・ゼネストを繰り返した結果、無血裡に共産党政府を終焉に導いた。

一滴の血も流さず、民主化に成功したことに私たちは誇りをもっていると、K氏は微笑んだ。

こののちハヴェルはチェコスロバキア大統領に選出され、劇作家らしい名演説を残した。

「あり余る自由を前に今何をなすべきか、正直定かではありません。韻文の世界が終わり、散文の世界が始まるのです。祝祭が終わり、日常が始まるのです。」

数十年にわたる監視、抑圧から開放され、自由意思を表現できる喜びが滲み出ており、目頭が熱くなる。

ハヴェルは40年間チェコを離れていた名指揮者クーベリックに帰国を促し、民衆の前でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とともに、スメタナの「わが祖国」を演奏させて民族意識を鼓舞した。

K氏によれば、それですべてがうまくいったわけではないのです。同一民族でありながら、歴史的変遷の違いが尾を引いて、チェコとスロバキアが分離してしまったのだという。

それでも、工業生産力にまさるチェコはお荷物のスロバキアと手が切れることに躊躇はなかったし、スロバキアは低迷が心配されたものの、予想外にプラス成長を遂げたので離婚はすんなりいったのです、といって笑った。

プラハの旧市街の石畳を歩きながら、行き交うひとびとの顔をみていると、西欧のそれとどこか違っている。K氏に問うと、スラブ人だからですよという。なるほどどこかふっくらしている。

プラハ城や修道院で係員と目が合うと、皆視線を避けてよそよそしく、西欧に比べるとおとなしく、口数も少ない気がする。

それを察知してか、東欧のひとは愛想がないでしょう。かつて社会主義ではいくら働いても報酬が変わらないので、皆やる気がなくなってしまったんです。1週間で出来る仕事も1ヶ月かけてやった。

いい仕事をしようとする気持ちが希薄なんです。民主化以来25年たっても、いまだにその空気が抜けないのだという。

プラハへ来た記念に、チェコを代表するボヘミヤングラスの店へ行ってみる。

外国観光客が多く、意外にも客への応対はいい。市中での苦い経験からみると、愛想のよさにたじろぐほどだ。それをK氏に言うと、なあに驚くことはありません。

彼らの接遇があまりひどいので、数年前、日本の高島屋に研修に行かせたのです。そのおかげで、やっとまともになったのですからと答えた。

社会主義世界がいかに乾燥した社会であったかを、如実に感じたことであった。

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