われわれは家に入ると靴を脱ぐ。居間では坐るのが当たり前である。
心乱れたときに自らを落ち着かせるため坐禅を組むのも、坐る文化の延長線上にある。
欧米人が禅に対して抱く憧れは、坐禅という静謐な雰囲気と、神のいない世界にいて、ひらすら自分だけを見つめるという神秘性にあるだろう。
仏教は神が衆生に教えを告げるという啓示宗教ではない。かといって依るべき指導書がないわけではない。
法華経、華厳経、維摩経、浄土三部経など5700もの経典群がある。
ただしこれらは釈迦の死後700年ほど経って、衆生を救おうという精神から作り上げられたものである。釈迦とは無関係である。
そもそも解脱などという離れ業は僅かな天才にしか許されていない。民衆は放りっぱなしであった。
そこで救済という思想が生まれ、信仰することによってわれわれは救われることとなった(大乗仏教)。
このため仏教は大いに発展したのである。
禅宗
ところが、この興隆に対し禅宗は画然たる一石を投じた。もう一度釈迦の時代にもどり、解脱を目指したのである。
禅では不立文字(ふりゅうもんじ)といって、経典がない。文字や言葉は見聞するものによってどうにでも解釈される不確かなものである。
そのような経典や他人の言葉にとらわれず、もっと自分というものを見つめなおそうという気運がおこった。
そこにおいては坐禅が修業の中心となる。坐禅しながら自分からは目をそらさないため、阿弥陀如来や弥勒菩薩などを崇拝することはない。
ひたすら坐り(只管打坐)、自分を見つめれば心の奥底に潜む仏性に気付くはずだという(見性成仏)。
また禅宗では「殺仏殺祖」といって、仏、祖先、父母を殺してはじめて悟りが開けるという。
無論言葉どおりではない。
われわれは頭のなかで、仏は特別なもの、衆生は取るに足りないものと決めてかかっている。
そういう常識を取っ払い、世の中の存在は等しく平等であるという境地に至ることが悟りである。
したがって本当に殺すべきは仏でも父母でもない。そう思い込んでいる自分を捨て去ることだというのが本旨である。
また、自分をみつめるとは自我でなく、無我を指している。
さらに無我とは単に自我を否定したものではなく、自我と周りの世界を含む広い範囲の自己を指す。
そこにおもいが至れば慈悲が生まれるとした。
公案禅
臨済宗では修業によって徐々に悟りに近づくといわれるが、曹洞宗では誰でも仏性(悟り)は生まれつき持っており、それに気付いていないだけである。
したがって修業によって悟りに至るのではなく、仏性に気付くことが大切であるとした。
悟りに段階はなく、修業ものものが悟りである(修証不二)という。
禅の修行僧の多くは、あらゆる経典を渉猟した結果結論を得られず、やっと禅宗にたどりついたというのが実情であり、臨済宗ではこうした思考癖のあるものを救う手立てとして公案禅をつくった。
公案とは悟りの境地に至るため作られた難問題で、答えは決してひとつでない。
修業の段階でいくらでも変容する。
ただし、「池に映った月を取り出してみよ」などと、矛盾に満ちた内容であり、自己を消し去ることができなければ結論に至らないという。
これに対し、曹洞宗では公案に拠らず、ひたすら坐ることに重きを置いた。
臨済宗は公家、大名に支持されて領地を与えられたため、あとから来た曹洞宗には入り込む余地がなかった。
しかも道元の目は自己の内面を見据えており、外へは向いていない。
その上、教えはすこぶる難解である。
このため後継者の瑩山(けいざん)禅師は、農民層を中心にかな法語を作って平易な説法を心がけ、家内安全、病気平癒の祈祷や、法要、葬儀もおこなって檀家と親密な関係を築くことに腐心した。
この地道な努力の結果、江戸時代、曹洞宗は本願寺を上回る末寺を有するまでに成長したのである。
現在、閉塞感に満ちた高ストレス社会のなかで、禅の精神がふたたび注目を浴びている。
行き先不透明で自己を見失い勝ちななか、坐禅はこの上ない自省の機会になっているようにおもわれる。