歌舞伎の坂田藤十郎がはまり役とはいえ、「曽根崎心中」のお初を演じて62年、ついに公演1,400回に達した。
カーテンコールで「山城屋っ!」の掛け声が飛ぶほどの好演だったという。
とはいえ齢83である。どこの世界にこの歳の老人が生娘を演じて当たりを取れるであろうか?
藤十郎にかぎらない。歌舞伎、能楽の世界では、このような例は珍しいことでない。
その源泉は、かの世阿弥にあるのではないか。
なにしろ彼は、能を「一生をかけて完成させていく芸術」であるとしたのである。
日本に限らず、それまでの世界では、老人は潔く舞台から去るというのが常識であった。
これに対し彼は、能はエンドレスであると主張し、肉体が衰えてもなおその先に、煌くものがあるとした。
この思想はその後、能楽ばかりか歌舞伎の世界にも受け入れられ、老人が娘役を演じるという異様を、違和感なく受容することとなった。
しかもそれが、今なお受け継がれているという不思議は、世界に例を見ない特異な美意識を産んだ。
そもそも「風姿花伝」は、世阿弥が自分の芸術論を世に問うたものではない。
30半ばを過ぎた彼が10年以上をかけて、父からうけついだ能楽のエキスを咀嚼して纏め、自分の後継者だけにそっと伝えた秘密の書である。
その最初の「年来稽古の条々」のなかに、晩年の父の舞いに、老いの美を発見するくだりがある。
五十有余ともなれば、「せぬならでは、手立あるまじ」と、何もしないというほかないと嘆息しつつも、「真に得たらん能者ならば、物数は皆々失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし」と余韻をもたせる。
事実、父観阿弥は死のわずか15日前に、駿河の国、浅間の御前で能を舞ったのであるが、「安き所を少な少なと、色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり」と、控えめな舞にもかかわらず、かえって際立って見えたというのである。
つまり「真に得たりし花」なればこそ、それまで蓄積された芸が残花となって煌めいたのであり、「老木になるまで、花は散らで残りしなり」と敬愛の念を吐露している。
さらに、60歳を超えた彼がものした「花鏡」は、「風姿花伝」以後20年間の能の集大成であり、長男元雅だけに(のちに娘婿・金春禅竹にも)相伝したものである。
その「花鏡」最後の奧段において、
と念を押している。
つまり、「是非とも初心忘るべからず」とは、修行を始めたころの芸の未熟さを忘れず、それをどう乗り越えたかを忘れてはならない。
そして修行が進むにしたがって、それぞれの時期に経験した己の未熟さと会得したものを忘れないようにすれば、それが身となり完成の域へと到達できるのである。
さらに「その時分時分の一体一体を習ひ渉(わた)りて、また、老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり」と、老いてもなお、初めて遭遇する試練を乗り越え体得することが肝要である。
つまり、老境を迎えたから、もういいと諦めず、老いてこそ、それに相応しい芸を極めることが老後の初心であるというのである。
そしてついに、「命には終りあり、能には果てあるべからず」、「住する所なきを、まず花と知るべし」と言って、芸術は留まり続けてはならない。
常に変化することが能(芸術)の本質であると喝破した。
したがってたとえ頂上を極めたと思っても、それは到達点ではない。
死ぬまで、さらに上を目指して稽古すべきだとした。
「風姿花伝」と同様、「花鏡」もまた、彼の芸術論を世に問うものではない。
他派とのつばぜり合いのなかで、後継者に秘伝として伝えたもので、生き残りをかけた戦略書である。
明日はどうなるか知れぬという世情のなかで、必死に生き抜こうとする世阿弥渾身の書である事を思えば、感慨もひとしおである。