伊予物語/IYO-HISTORY

11. 長曽我部元親の憂鬱

11. 長曽我部元親の憂鬱

11. 長曽我部元親の憂鬱

20140929164320元親は伊予の侵略者として、伊予人には決して良い印象はもたれていません。

しかし、戦国時代という混沌のなかで、四国をひとつに纏め挙げようと志し、史上はじめてその目的をほぼ達したのですから、敬意を表してとりあげることにしました。

四国統一を目論む彼の懸念は、中央の覇者、信長という帝国主義者が自分の活動を黙認してくれるかどうかの一点でした。

信長からみた四国は伊予も土佐も田舎の小国にすぎず、いっぱひとからげにみられていたようです。

長曽我部元親の憂鬱

長曽我部元親の憂鬱はこのへんからはじまります。

天正8年、長曽我部元親は土佐一国の統一後、阿波・讃岐・伊予へと勢力を広げる一方、京を制圧していた信長へ、光秀(四国の外交責任者)を通じて使者を送り、四国は任せるとの約定をもらっていました。

ところが元親が四国をほぼ統一すると、信長はこの約束を反故にし、占領地を放棄し土佐一国に戻れと命令してきました。

元親の怒りは尋常でありません。

危惧していたとおり、中央集権をめざす彼が自分に四国を任せるわけがないということを思い知らされるのです。

天正10年、元親にとっては、信長に煮え湯を飲まされかけたとき本能寺の変がおこり、暫しの安楽を得たといえます。

がしかし、天正11年、柴田勝家を破ったあと天下人となった秀吉は、しずが岳では柴田側につき、小牧長久手では家康側に内通した長曽我部元親に目を据え土佐一国にもどれと命じます。

そして天正13年、なおも四国を手放そうとしない元親を討伐するべく秀吉は大規模な軍事行動に入ります。

まず、羽柴秀長軍3万、羽柴秀次軍3万がそれぞれ土佐泊へ、宇喜田・黒田・蜂須賀軍2万が屋島へ、毛利・吉川・小早川軍3万が伊予の今治へと侵攻していきます。

この圧倒的な軍事攻勢の前に、元親軍は全くなすすべがありませんでした。

わずか1ヶ月で降伏の憂き目に会うこととなります。

天を仰ぎ嘆息する元親が目に浮かぶようです。

が、かろうじて土佐一国だけは安堵されました。

20140929164325天正14年、元親は秀吉の命により九州征伐を仰せつかります。

彼は長男信親とともに伊予の今治港より九州遠征に出かけますが、九州上陸後、強力な島津軍の攻勢にあって、不運にも信親を落命させることになります。

信親の信望が高かっただけに、元親の落胆は相当なものでした。

さらには九州遠征中、留守を守っていた妻にも先立たれる悲運に見舞われます。

かつて”長曽我部式目”を制定し優れた統治能力を示した元親ですが、この頃から彼には急速に老いが目立ってきます。

元親には4人の男子がいましたが、信親死後、元親は重臣たちの反対を押し切って、末子相続を決めます。

こうして跡目を幼い4男の盛親にゆずり、自らは隠居の身となって秀吉のいる大阪に住みます。

秀吉の死後、天下の趨勢は家康になびいていましたが、元親はひたすら傍観の姿勢を崩さず、盛親にも重臣にも先々の指図をせぬまま世を去ります。

残された盛親は、こののち関が原の合戦において西軍に組したため、戦後、家康に所領没収の宣告をうけることになります。

さらに流浪の人となった彼は、大阪夏の陣にて短い生涯を終え、ここに長曽我部家は断絶しました。

あとに残された長曽我部侍は、この後、遠州掛川から赴任してきた山内武士団の下に置かれ、260年間に及ぶ受難史を刻むことになるのです。

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