秀吉という人はつくづく商才に恵まれた人であったと思います。
貧農の子に生まれ、戦乱の世の底辺で様々な小商いをしながら、商売の勘を養い、武士階級との接点を探っていきます。
そして偶然、織田武士団の片隅につてを得、下級武士グループの中に身をおいて、こつこつと地道な実績を積み上げていきます。
当時の織田軍は2万の軍団ですから、トップの信長の目に留まるには余程の功績か幸運がなければ、無理でしょう。
信長が能力第1主義をとる人物であったからこそ、軍団のビリから出発しながらも、2万人抜きという出世を遂げることができたわけです。
痒いところに手が届かなければ商売に成功しないと考える彼は、つねに相手の腹の中をみながら、痒いところに先手を打ちつづけて、懸案を解決していきます。
彼の軍略は武士道にのっとった軍略でなく、商人にみられるそれであり、相手の弱みをつきつつも、一方ではなだめすかして、計略でもって戦いを制していきます。
その結果、自分の兵力の損害はわずかで勝利するという合理的勝利をものにしますが、戦国武将の目からみれば、武士の風上にもおけぬ奴という評価をうけます。
兵(つわもの)の道
彼の時代は、明日の命がどうなるか分からないという戦場が日常の風景です。
この切羽詰った悲壮感から兵(つわもの)の道という特殊論理が戦場に誕生しました。
すなわち、あっぱれな敵と戦うのを名誉あることとし、敬意をもって堂々と戦い、勝負がつけば武人としての品位をもって身を処すというものです。
これは当時の武士に禅や儒教思想が受け容れられたためで、戦国武士道として完成しました。
秀吉は石山本願寺攻めと松永弾正の信貴山城攻めに参加した後、息つく暇もなく、西国一の大名、毛利氏の征服という難題を信長に命ぜられていました。
すなわち、彼は中国地方の申し次(軍事担当者)であり、この地の諸将が織田方につく際には彼を通して信長に言上する仕組みになっていました。
秀吉のもっとも信頼の厚かった軍師・黒田官兵衛は播州(兵庫)攻めで味方になったひとです。
難国播州をたった2ヶ月で平定できたのは、ひとえに黒田官兵衛の手腕によるといわれています。
秀吉は竹中半兵衛とともに黒田官兵衛という知恵袋を得、徐々に柴田勝家らのライバルを征していきます。
毛利攻めのため備前宇喜田秀家を味方に引き入れ、山陽路を一路、備中高松城へ向かう秀吉が、瀬戸内海のかなたに霞む伊予の島々を見やって、いずれは四国も我がものにとの思いを抱いたかもしれません。
当時の四国は明智光秀が申し次となっており、彼の担当ではなかったにせよ、土佐の長曽我部元親が阿波・讃岐を平定し、伊予に進軍しているのを情報としては当然知っていたでしょう。
がともかく眼前に迫る対毛利戦略で頭が一杯となり、伊予の攻略を考える余裕はなかったでしょう。
秀吉は、武力による城攻めを極力避け、調略による攻城に全力をあげています。
機を見るに敏で、やむなく観念した敵陣へ丸腰で単身乗り込み、相手のどきもを抜いて敵将の心を捉えてしまうという離れ業もやってのけています。
備中高松城でもそうでした。
城のまわりの水はけの悪さ、攻めるに難渋するのをみて、奇想天外な水攻めをおもいつきます。
武士としての正規の学問をしていない素人っぽい発想ですが、従来の軍学にない攻城法に城主清水宗治も、駆けつけた毛利・吉川・小早川軍も、唖然として打つ手がありません。
秀吉とて、前哨戦である備中高松城を攻略しても、そのあと毛利に勝てる目算はなかったでしょう。
さかんに信長へ応援を請うています。
本能寺の変、その後
そしていよいよ、信長が重い腰をあげ、光秀を中国攻めに向かわせようとしたとき、本能寺の変で客死するのです。
この変報が京から山陽路を駆け抜けたとき、いちはやく秀吉軍に届いたのは幸運でした。
毛利軍に先に届いていたら、講和は決してならなかったでしょうし、凄惨な戦場と化していたとおもわれます。
案の定、毛利側へも飛脚は飛んでいましたが、黒田官兵衛の深謀術中にはまり途中で捉えられたといいます。
また、城主清水宗治が切腹し、講和がなったあとに本能寺の変報を聞いた吉川元春は、秀吉に図られたと立腹します。
しかしここでも、秀吉軍を追撃しようといきり立つ元春を、実弟小早川隆景がいさめ、秀吉は無事京へ戻ることができます。
紙一重の差で秀吉は幸運を手にしていきます。
また、歴史に残るわずか3日の中国大返しは、官兵衛による緻密な軍事采配があってこそ成しえたことですが、2万という大軍が狭い山陽路を3日3晩駆け抜けたのちに、間髪入れず明智軍と山野でぶつかりこれを圧倒するという猛烈な体力には、想像を絶するものがあります。
天正13年、天下人となった秀吉は、長曽我部元親に宣戦を布告します。
今治に上陸した毛利・吉川・小早川軍3万の芸州勢はまず東予の諸城を陥落させ、次いで松山へ向かい道後湯築城を無血開城させ、最後に南予地方も平定しました。
このあと伊予の大半は小早川氏の所領(35万石)となりましたが、2年後、九州攻めが終わると程なく筑前・筑後へ転封されました。
小早川氏の後は、福島正則が東予に所領11万石、中予に蔵入地(直轄領)9万石で、南予に戸田勝隆が所領9万石、蔵入地(直轄領)10万石の代官としてはいりました。
秀吉は福島・藤堂・戸田らに命じて検地を施行し、年貢は収穫量の3分の1を百姓に、3分の2を領主へ収めるよう定めました。
同時に、伊予の守護、河野氏はお家再興を断念し、安芸の竹原に移住、この地で没しました。
四国・九州支配の要
秀吉は伊予を四国・九州支配の要と考えていたようです。
彼は四国平定の後、自身の直轄領(19万石)を、伊予におきました。
四国のなかでは山陽寄りで中央から目が届きやすく、九州に最も近く睨みをきかしやすいという理由であったことは容易に想像がつきます。
こうして四国平定の2年後には、あっけなく九州も平定されるのです。
秀吉の天下統一構想にはとても興味深いものがあります。
秀吉は農民の子ですが、信長に拾いあげられるまで、口を漱ぐためさまざまな商売をしたといいます。
そして自分の身代が大きくなるにつれ、どうすれば儲かるかということを商人の目で考えていたように思われます。
彼は大阪の地に目をつけます。
日本の中心に位置し、良港に恵まれたこの地に全国から米・材木など生活必需品を集めさせ、市をたて商売によって儲けることを考えます。
この点、あとを引き継ぐ家康が再び米を主体とする農業社会にもどそうとするのと好対照です。
彼はまた全国に検地をおこなうことによって、農民からの年貢が直接大名のもとへ入ってくるように仕向けます。
つまり、大名と農民の中間で搾取していた地侍層をつぶしてしまったのです。
このため、用済みとなった地侍は大名の家臣になったり、上級農民である庄屋階級に身を落としていきました。
これほど経済感覚にすぐれた武将でしたが、老後は自身の後継者問題や朝鮮出兵などで、統治者としての平衡感覚を失い、後顧の憂いを残したまま世を去ります。
残された嗣子秀頼は戦国武将の条件とされた、大将自ら戦場に立ち陣頭指揮をとるということをしなかったため、秀吉子飼いの武将からも離反を招き、結局家康に滅ぼされてしまいます。
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