伊予物語/IYO-HISTORY

23. 昭和戦前の伊予

23. 昭和戦前の伊予

23. 昭和戦前の伊予

空母
関東大震災で関東全域が沈滞するなか、昭和2年(1927年)、大蔵大臣の失言に端を発し、東京渡辺銀行が倒産。

日本金融恐慌が始まります。

当時の日本の輸出は4割を生糸・絹が占めており、その9割はアメリカ向けでした。

昭和4年(1929年)アメリカに金融恐慌がおこると、生糸と絹の価格が暴落。

輸出が激減したため、我が国でも倒産が相次ぎ、地方では娘の身売りが社会現象となりました。

関東軍の暴走

この社会不安を背景に軍部が台頭し、現状を打開するため満州へ進出し、豊富な鉄石炭などの資源を獲得しようとします。

こうして昭和6年(1931)、満州にいる陸軍(関東軍)は強引に満州事変を引き起こし、翌年、満州を植民地にしてしまいました(満州国)。

関東軍の暴走に政府は反対しましたが、景気が上向き、国民が歓迎したため、黙認せざるを得ませんでした。

日本からは仕事を求め、32万人が大陸へ渡ったといいます。

不景気の打開策が打てない政治に対し、軍部の不満は国内でも暴発します。

昭和7年(1932年)、海軍の青年将校が犬養首相ら首脳を射殺する5.15事件をおこしたのです。

これを機に政党政治は終焉に向かい、軍部の権力が政党を凌駕するようになります。

昭和10年には政党政治を擁護する天皇機関説がやり玉に挙げられ、翌11年(1936年)には陸軍皇道派(政党財閥打倒、天皇中心)が2.26事件をおこしました。

これを粛清した陸軍統制派(官僚と結託し経済統制)がその後、発言力を強めていきます。

満州事変のあと、陸軍は広い国境線でソビエトと対峙していましたが、あっけなく満州を制圧したため、軍部では中国本土も威嚇すれば簡単に降伏するという意見が勢いを得てきました。

こうして昭和12年(1937年)、盧溝橋事件を発端に日本軍は中国軍と泥沼の戦争に入っていきます。

それは全く予想外の展開でした。

予想外の展開

米英が日本に中国の利権を独占させまいとして、中国の蒋介石を支援したからです。

若き侯爵、近衛文麿首相は戦争を終結させようとしますが、軍部の圧力に屈し、昭和13年国家総動員法が施行されます。

陸軍は統帥権を駆使し、80万もの兵力を中国全土に送り続けました。

日中戦争が激化するなか、ヨーロッパでもドイツのヒトラーが近隣諸国への侵攻を開始しました。

ドイツは第1次世界大戦後のパリ会議で1,320億マルクという途方もない賠償金を課せられ、ドイツ工業の心臓部であるルール工業地帯をフランス、ベルギーに押さえられ、失業率30%、失業者550万人という国家危機に瀕していました。

そうしたなか、昭和4年のアメリカの金融恐慌は世界中を恐怖のどん底に陥れました。

アジアに植民地をもつフランス、オランダなどの国々は自国内のやりくりでかろうじて乗り切りましたが、植民地をもたぬドイツや我が国は壊滅的な影響を受け、閉塞感、絶望感に打ちひしがれた中で、ヒトラーが発言力を増してきたのです。

イタリアと同盟を結んだドイツは、領土奪回やロシアの石油を求めて、ポーランドに侵攻します。

これに憤った英仏がドイツ・イタリアに宣戦布告。

昭和14年(1939年)おこるべくして第二次世界大戦が勃発したのです。

我が国の軍部首脳はドイツがわずか一ヶ月でパリをはじめ、オランダ、デンマークを降伏させたのに驚喜します。

これらの国々が所有する東南アジアの石油資源が放置されることになったからです。

石油を渇望してやまぬ日本陸軍はこの機に乗じドイツ・イタリアと三国同盟を結んでフランス領インドシナ(現在のベトナム)に進駐します。

近衛から東条へ

近衛内閣は態度を硬化させたアメリカとの関係修復を模索しますが、ゾルゲ事件で内閣は総辞職。

好戦的な東条内閣が成立します。

かくしてアメリカから最後通牒をつきつけられた日本は、昭和16年12月、アメリカ及び連合国に宣戦布告、太平洋戦争がはじまります。

そして真珠湾攻撃と同時にマレーシア、シンガポール、フィリッピン、インドネシアなど欧米の植民地に侵攻、一時は大東亜共栄圏の構想が実現するかにみえました。

しかし、昭和17年(1942)6月、日本海軍は真珠湾で撃沈できなかった米艦隊をミッドウエーにおびき寄せて殲滅作戦をもくろみますが、逆に暗号を解読され、返りうちに遭ってしまいます。

さらに2カ月後、米豪交通を遮断する目的でガダルカナル島(ソロモン諸島)に飛行場を建設しますが、逆に米軍に乗っ取られ、多大の犠牲者を出してしまいます。

以後、アメリカ軍の圧倒的な軍事力の前に、太平洋諸島の日本軍は敗戦に敗戦を重ねます。

そして昭和20年(1945)2月、日本空襲の中継基地とされる硫黄島が玉砕し、翌3月、東京大空襲で10万人の死者を出してしまいます。

さらに4月には米軍が沖縄へ上陸し、沖縄県民12万人を含む23万人が犠牲になりました。

この時期、愛媛県人部隊である松山22連隊は第24師団に編入され沖縄守備にあたりましたが、この沖縄戦でほぼ全滅したといわれています。

6月に入ると、全国の地方都市にB29の無差別爆撃がおこるようになります。

そして連合国からポツダム宣言が発表された7月26日には、松山が大空襲に見舞われます。

わずか2時間の爆撃で、松山市の全戸数の55%、全人口(12万人)の53%が罹災し、戸外へ投げ出された市民の生活は一挙に困窮を極めることになりました。

ここに至っても一億玉砕を叫ぶ大本営は徹底抗戦の姿勢を崩さず、昭和20年7月、ついにアメリカは実験に成功した原子爆弾を投下する決定を下しました。

広島は輸送船団の集合地で、唯一、連合軍捕虜収容施設がないという理由で第1候補地に、また小倉は国内最大の爆薬庫があるため第2候補地になりました。

しかし実際には8月9日当日朝、上空に雲が多く投弾できないため急きょ長崎へ変更されたのです。

長崎原爆投下の日、ソビエトが参戦し満州を攻撃しました。

これによって政府は無条件降伏を受け入れ、ポツダム宣言を受諾するに至ったのです。

我が国の死者数は300万人に達し、松山市民の戦没者も8,000人を超えました。

それにしても第2次世界大戦は、世界の人口の5分の4をまきこみ、1億1千万の兵士が戦闘に参加し、3,000万人以上の犠牲者を出して終わったのです。

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