信長は自分の眼力に絶対の自信を持ち、当時流行していた呪いやまじないに強い嫌悪感をもち、仏教もキリスト教に対しても、利用はしても信用はしなかった人のようです。
この国の身動きを悪くしているしがらみを、ことごとく破壊して風通しを良くし、自分を頂点にした強力な統一国家に向かって一気に駆け抜けたように思われます。
彼は京に入るとまず堺を押さえ、関所を廃止し通行税を無料にして人の流れを活発にしました。
ついで商業地に楽市楽座の制度をしき、座の制約・特権を廃止し、市に集まる商人に商売の自由をみとめ、無税としました。
つまり政権の経済基盤を従来の農業でなく、商業でもって作り上げようとしたのです。
このため、大阪湾にほど近く物流に最も適した石山本願寺の地に、大阪城を建てるべく立ち退きを迫りますが、断固拒否されます。
本願寺派は当時人口の1割を占め、信徒である地侍・農民の団結がつよく10カ国の大名の実力をもつといわれていましたが、信長はこれを力でねじ伏せようとします。
このため、伊勢長島の本願寺でも信長に対し一揆が気勢をあげ、戦闘は泥沼化していきました。
一方、信長は秀吉に播州の平定、ついで西国最大の大名毛利氏の平定を厳命しますが、兵力に劣る秀吉の軍勢では侵攻は思うように進みません。
さらに浅井(北近江)朝倉(越前)は姉川で破れた後も、比叡山にのぼって僧侶と同盟関係を築き、上方と岐阜の通行を寸断しようとしました。
これに追い討ちをかけるように、信玄上洛をきいた大和国主松永久秀が反旗を翻し、信長は窮地にたちます。
おそらくこの時期の信長には、四国攻略を考えるゆとりはなかったでしょう。
長曽我部元親
これに先立ち、長曽我部元親は土佐を統一した後、信長の中央での勢いを見て、四国の外交責任者光秀を通じ、使者を上京させます。
信長は元親の使者に会い、いったん四国は任せると口約束して帰しますが、思いのほか早く彼の四国侵略が進むと、この約束を反故にし、土佐一国に戻れと命令してきます。
元親の怒りはただごとでありません。
間に入った光秀の面目も丸つぶれです。
阿波の守護は細川氏であり、その家老が三好氏です。
戦国期、三好氏が守護をのっとり、一時は京をも征服し、近畿の河内の国も領していましたが、信長に攻められ、阿波へ帰っていました。
その後、元親に攻められたため一転、今度は上方へ走り、信長に庇護を求めました。
これに対し、元親に攻められた伊予の河野氏は毛利氏に庇護を求め、以後、伊予水軍の多くは毛利水軍の中核として石山本願寺への物資輸送に協力し、織田軍の本願寺攻撃に対抗しました。
信長にとっては、元親の四国統一はなんとかして阻止したい。
自分が四国征服に出て行くまでの、防波堤として三好氏を利用しようとしました。
一挙に中央集権国家をめざす彼が、長曽我部氏に四国を任せることなどありえません。
あくまで策略であり、時期を待って滅ぼすのは既定路線であったでしょう。
いったん中国を平定後、毛利氏に九州・四国を攻めさせる腹づもりであったといわれますが、その中国攻めにみずから乗り出そうとしたとき、光秀の謀反に倒れました。
信長の外交と運命
信長の外交は策略に満ち満ちています。
強い敵には弱者をよそおって油断させ、とくに武田信玄、上杉謙信には献上品を欠かさず、姻戚関係をむすび卑屈に接していました。
しかしいったん立場が逆転すると傲慢になり、利用価値がないとみれば平気で切り捨てました。
将軍、足利義昭への粗雑な扱いはその典型で、光秀の謀反も、彼のもと主君、足利義昭を信長がないがしろにしたことに端を発しているといわれています。
かれの中には戦国武士のもつ“もののふの道”はなく、窮地打開のためには、比叡山に不意打ちをかけ、山にこもる学僧・女・こども数千人を皆殺しにするという暴挙も辞しません。
ひきつづき本願寺にこもる衆徒に対しても同様の無差別殺人をおこないます。
信長には天下をとる才能はあっても、政権を維持する人望はなかったようにおもわれます。
どこかで進路を絶たれる運命にあったといえるのではないでしょうか。
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