律令体制のほころびは瀬戸内海にも影響をおよぼすようになりました。
過酷な律令制に耐え切れなくなったひとたちは、土地を放り出し逃げ出したものの、行く先がありません。
一部は海に出て、往来する船を脅して物品を略奪するようになりました。
伊予水軍で名高い河野水軍の登場はこうした海賊討伐に端を発していますが、歴史にその名を留めるようになったのは、源平合戦における屋島・壇ノ浦の活躍にほかなりません。
陸上戦に強い源氏に対し、瀬戸内海を本拠地とする平氏は海上戦を得意としていました。
源氏と河野水軍
潮流の激しく変わる瀬戸内海で、舟いくさの苦手な源氏は河野水軍を味方につけることに成功します。
この時、源氏側は操船術にたけた河野水軍の指示に従い、潮流が味方に有利になるまでじっと我慢して平氏の攻撃を凌ぎ、潮流が変わるや、一気に反撃に転じたのです。
河野通信は義経に水手、舵取りのない船は木くずにすぎないと説いて、彼らに照準をしぼって集中攻撃させ、平氏の軍船を漂流船にしてしまいました。
ついで御座船へ集中攻撃を開始しますが、平氏の軍船は陣形が乱れもはや御座船を守ることすらできなかったといいます。
南北朝期、北朝に属した河野水軍は、南朝方についた新興勢力・三島村上水軍や忽那(くつな)衆と対峙しましたが、南北合一後は彼らを支配下に組み入れていったようです。
ただ能島(のしま)・因島(いんのしま)・来島(くるしま)の三島村上氏は、御船大将でもあったため、そのうち河野水軍といえば三島村上水軍をさすようになっていきました。
彼らは海上の警護・運搬・交易にたづさわりながら、付近を航海する船に通行税を要求し、応じなければ積荷を奪い取るなどの乱暴を働くようになりました。
そして室町中期には、戦乱であぶれた浪人者や船乗り・物売りをあつめ、出稼ぎと称して朝鮮・中国まで進出し、米などの物資のほか、かの地の人々を拉致し人身売買をもおこなったといいます。
明国へ
南海治乱記には、総大将を三島村上氏とし、九州・山口・和泉・和歌山の連合による倭寇が明国を襲撃したと記されています。
また河野家に伝わる家書によれば、能島村上を大将として、四国・九州・海辺諸浪人・漁民など1,000人以上、100隻以上の船団で明国へ攻め入ったとあります。
通常倭寇は北九州の対馬・壱岐・松浦を中心とした漁民・浮浪民などの海賊集団と考えられていますが、瀬戸内海の水軍もその一翼を担っていたことを示しています。
瀬戸内海の覇者・三島村上氏のうちもっともはやく姿をあらわしたのは、能島村上氏でした。
かれらの本拠地は 芸予諸島中央部を東西に抜ける重要航路(舟折りの瀬戸)の喉元にあたります。
その水軍の勇壮ぶりはつとに有名で、独立性が強く、戦国大名からの勧誘にも応ぜず、容易に臣従しようとしませんでしたが、村上武吉のとき全盛期ををむかえ、石山本願寺の合戦では毛利水軍の中核となって活躍し織田軍に対抗しました。
ついで因島村上氏が登場します。
彼らは山陽沿岸と燧灘(ひうちなだ)をむすぶ重要航路(布刈めかり瀬戸)をおさえていました。
のち、能島村上氏と同様、小早川・毛利氏に忠誠を示し、毛利藩舟手組に編入され周防三田尻(現在の下関)へ移動することになります。
三島村上氏のうち来島村上氏は別行動をとります。
彼らは 芸予諸島南部の来島海峡(波止浜の入江の入り口)をおさえていました。
戦国末期、彼らは河野氏の重臣ながら、織田方へ寝返ったため、毛利・河野氏らを敵にまわし一時は四面楚歌の状態となります。
しかし、秀吉の四国平定後、唯一14,000石の大名にとりたてられます。
しかしそれもつかの間、関が原で西軍についたため、戦後、大分県の山間地・玖珠町へ移され、以後瀬戸内海とは無縁の存在となってしまいました。
瀬戸内海にはこれら三島村上氏とは別に防予諸島(周防と伊予)で活躍した忽那氏がいました。
彼らは平安末期より中島(忽那島)を中心に活動し、鎌倉時代には島の御家人・地頭を勤めるようになりました。
南北朝時代には征西将軍・懐良(かねよし)親王を3年間中島にかくまい、吉野と九州の中継点として活躍しますが、戦国末期、河野氏の滅亡とともに、忽那水軍も衰退の一途をたどったのでした。
大山祇神社
ところで源頼朝・義経らをはじめ、伊予の守護河野氏が氏神とし、また村上水軍も信仰してやまなかったのが、芸予諸島中最大の大三島にある大山祇神社でした。
祭神は天照大神の兄、大山積神(おおやまづみのかみ)で、全国1万以上の大山積神社・三島神社などの総本社です。
神聖な島として御島(みしま)から三島に転じたといわれています。
伊予の水軍がいかに信仰厚かったかは、全国一といわれる奉納された武具・甲冑類をみても明らかです。
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