政府は明治38年(1905年)の日露戦争終了後も依然として軍事費を増強していたため、国民生活への負担は多大なものがありました。
大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発しました。
日本は、日英同盟によりイギリス政府からヨーロッパ戦線への参戦を求められましたが、これを断り、連合国の輸送船団の護衛に専念しました。
このためヨ-ロッパは戦勝国ですら国家経済が疲弊しきったのに対し、戦場になることを免れた日本は、参戦国から軍需・生活品の注文が殺到し、紡績、海運、造船のほか機械、化学工業も興隆し、一挙に軽工業から重工業国への変身に成功しました。
しかし、大正8年(1919年)戦後処理を話し合うパリ会議において日本は山東半島の領有を強引に承認させたため、中国では五四運動が起こり抗日運動が激化、アメリカでも対日感情が悪化しました。
そして大正10年(1921年)には、アメリカの主導でワシントン会議が開かれ、ロシアの脅威が去って継続理由のなくなった日英同盟が破棄されました。
アメリカの思惑どおりの筋書きです。
さらに日本は米英より低い軍艦保有率を決められ、山東半島から撤退せざるをえなくなりました。
政府としては、第一次世界大戦の終了で欧米からの注文が停止し戦後不況が目立ち始め、これ以上の軍事費支出は抑えたかったのです。
この決定を政府首班大隈重信が軍部に相談なく行ったとして、軍部と政府は険悪な関係となりました。
さらに大正12年(1923)関東大震災が発生し、首都東京は壊滅的打撃をうけ、震災後恐慌に陥っていきました。
大正デモクラシー
大正デモクラシーは明治の高等教育をうけて育った人たちが中心になり、帝国主義、軍国主義の反対や労働運動、婦人解放運動、普通選挙権要求を唱えました。
このデモクラシーの政治理念は天皇主権の時代背景を配慮し、民主主義でなく、民本主義と訳されました。
またマスコミの発達によりレジャーなど大衆文化が普及しましたが、一方で核家族、住宅問題などをおこしてきました。
大正デモクラシーは普通選挙法を実現したのち、いったん終息しますが、昭和期に入るとすぐに軍部の台頭により治安維持法が制定され、日本の民主主義は後退していくのです。
このように大正時代前半は大変景気のよい時代で、また鉱山の技術が進歩したため愛媛県でも多くの鉱山が開坑されました。
別子銅山は江戸期から採掘されていましたが、この時代、三崎半島の銅鉱山の採掘が盛んにおこなわれました。
大正5年には伊予銀行、大正11年(1922年)には愛媛銀行が開業し、大正9年(1920年)の第1回国勢調査で松山市の人口は5万人を超えました。
正岡子規の叔父・加藤恒忠(拓川)が第5代松山市長を務めたのもこのころです。
また大正7年にはスペイン風邪が松山で大流行し、学級閉鎖が相次ぎました。
大正14年(1925年)には重信川河川敷に本県初の飛行場が開設されました。
松山商業学校が甲子園で初の全国優勝を果たしたのもこの年です。
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