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カッテンディーケの見た日本

カッテンディーケの見た日本

カッテンディーケの見た日本

Hruruk / Pixabay

嘉永6(1853)年、ペリーの開国要求に驚愕した幕府は、あわてて交易国オランダに相談をもちかけた。これに対しオランダは、老中阿部正弘に、日本の地理的条件からして海軍をもつことが第一であり、洋式海軍の創設には尽力を惜しまないと返答した。

長崎海軍伝習所の設立

阿部ら幕閣は、ただちに大型船建造の禁を解き、オランダに依頼して洋式海軍の創設と軍艦購入を急がせた。このため、安政2(1855)年、長崎に海軍訓練施設である伝習所が設立された。

幕府から派遣された伝習生は40名ほどで、ほかに諸藩(佐賀、福岡、薩摩、長州など)からも130名が参加した。

長崎海軍伝習所では、スームビング号の将校士官たちが教師となり、航海術、運用術、造船学、砲術、船具学、測量学、算術、機関学、砲術調練にいたるまで幅広い知識が教授された。

しかし通訳がつくといっても、午前4時間、午後3時間の講義すべてをオランダ語でやるのであるから、測量学、代数、化学、物理などの抽象的な学問は、ほとんど伝達不能である。なにしろ通訳自身理解できないことが、生徒に伝わるはずがない。

勝海舟、教官に

わずかに、蘭学に習熟していた勝麟太郎(のちの勝海舟)だけが、なんとか教師の意を斟酌して伝習生に通訳したため、彼は海軍伝習所に欠かせぬ人となった。

しかし勝自身からして蒸気船の仕組みも知らぬ素人であるから、大いに苦労をしたのであった。

安政4年(1857年)、伝習所の講義が2年で終わり、幕府から派遣された40名は、幕府が造った軍艦教授所の教師として江戸に帰還することになり、第2次伝習生が集められた。ところが、勝だけはオランダ側の要望で、長崎に残るよう指示されたのである。自分も江戸へ戻れると思っていた勝は、憤懣やるかたない思いであった。

カッテンディーケ 長崎に来航

一方、スームビング号のオランダ帰還に伴い、交代で第2次派遣船ヤパン号(後の咸臨丸)が来航した。艦長はカッテンディーケ中佐である。

任務に就いたカッテンディーケは直ちに勝の才能を認め、自分たちと融通のきかぬ日本人との仲をとりもってほしいと切望した。のちに彼は著書のなかで、「どのような難問題でも彼が間に入ってくれれば、我々オランダ人も納得した」と称賛している。

ただ、「彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな工合にあしらえば、我々を最も満足させ得るかを見抜き、我々をおだて上げ、手玉に取ろうとしている」といっている。

そうは言いつつ、ふたりは妙に馬が合い、ほどなく肝胆相照らす仲となった。

当時、勝は幕府より航海練習にかこつけ、薩摩藩の密貿易を調査するよう密命をうけていた。

ところが薩摩藩主・島津斉彬は、咸臨丸が山川港に姿を見せたと聞くや、ただちに鹿児島へ船を回すよう勧め、勝やカッテンディーケを歓待した。薩摩が幕府要人を藩内に招くなど、江戸時代を通じてない話しである。そこで勝も、琉球行きを阻止せんとする斉彬の腹を読み、そしらぬ顔で饗応をうけた。

斉彬は心中穏やかであるはずがない。が、彼らをどう評したものか、鎔鉱炉、鋳砲・製銃工場、ガラス工場、電信機製作所ばかりか自前の蒸気船まで、案内して回った。

カッテンディーケの驚きはじつに新鮮であった。蒸気機関など見たこともない日本人が、図面だけでこれだけのものを造る。その能力の高さに尊敬の念すら抱いたという。勝もまた、度肝を抜かれたに違いない。幕府の目の届かぬところで、これだけのものが造られているとは。「薩摩、恐るべし」というのが本心ではなかったか。

幕府、伝習所の閉鎖を通告

安政5年(1858年)、老中阿部正弘が急死し、後を継いだ大老・井伊直弼が、朝廷に無断で通商条約に調印した。これに対し、朝廷や水戸藩をはじめとする尊王攘夷派の怒りが爆発したが、井伊は断固としてこれを力で制圧し(安政の大獄)、世の空気は一挙に不穏となった。

安政4年(1857)の第2次伝習生は45名に減っていたが、2年後の安政6(1859)年2月、突然幕府より、伝習所の閉鎖が一方的に通告された。大老の井伊が、海軍は伝習生だけで十分やれると、判断したものと思われる。4年間尽力してきたオランダへの感謝どころか、誠意を踏みにじる冷ややかな対応に、カッテンディーケは幕府への不信を募らせていた。

一方、長崎に残されていた勝の心中も穏やかでない。不運急を告げる時勢に、いつまでもここで長居しているわけにはいかない。

ちょうど万延元年(1860年)、日米修好条約の批准書交換のため、遣米使節が派遣されるというニュースが入った。勝はみずから志願して江戸に戻ることを許され、アメリカ軍艦『ポーハタン』号の随行艦「咸臨丸」の艦長に抜擢された。

カッテンディーケの見た日本

こうして勝は江戸へ、カッテンディーケはオランダへ帰国の途に就いた。

帰国後、カッテンディーケは日本滞在時の回想録をものした。当時のヨーロッパ人が初めて見た東洋の不思議な国の記述が興味ぶかい。

そのなかに、勝と談話しているとき、とても印象的だったというエピソードが記されている。

彼が来日したころ、出島のオランダ人は長崎市中を自由に散策できる許可がでていたという。

或る時、長崎の町があまりに無防備なのをみて、町の商人に、「長崎が攻撃された場合、はたして町を防衛できると思っているのか」と尋ねたところ、「なあに、そんなことは私たちの知ったことじゃありません。そりゃあ、お上がなさるでしょう」という返事だったのに愕然としたという。

しかもそれを勝に話したところ、「オランダの場合はどうなんですか?」と聞き返されたのに、もう一度驚き、こう答えたという。

「オランダには憲法があります。オランダ人はいかなる人でも、ごく自然にオランダ国民です。自分の身と国とを一体のものとして考え、あるときにはオランダ国の代表として振舞います。もし、敵に攻められたら、自ら進んでそれを防ごうとします。それが国民というものです。日本がなぜそうでないかが不思議ですね。」

プロテスタントの国・オランダは、カトリックの宗主国・スペインの圧政をはねのけ、多大な流血と犠牲の上に独立を勝ち取ったという歴史がある。国を挙げて独立を死守するオランダ人から見ると、日本人の呑気な応答には、開いた口が塞がらなかったのであろう。

「国民」「国家」の意識を勝に植え付ける

さらにカッテンディーケは、「この国のなかは幾多の藩が独立割拠し、互いに敵視しあっているような状態である。このため、単一の利益を代表するなど思いも寄らぬことではあるが、それは結局のところ、一般の不利益にしかならない。」といって、日本という国のかたちを 君たちが造っていくべきだと説いた。

当時の幕藩体制下では、誰もが自分は藩の人間であって、日本人であるという意識はなかった。勝ほどの開明派でも、この時期には「国民」というイメージを頭の中で育てることは難しかったといえる。

その後、勝は何度もカッテンディーケを訪ね、幕府崩壊後のわが国のあり様について、彼から示唆を得ていたとおもわれる。

カッテンディーケは長崎の風土を愛し、住民の飾り気のない素朴さを愛で、贅沢に執着せず、他人に寛容で慈悲深い姿に感動していた。そしてこんな美しい国で一生を終わりたいとまで言った。

その彼が日本を離れるにあたり、「自分がこの国にもたらそうとしている文明が、果たして彼らにより多くの幸福をもたらすか自信がない」としみじみ語ったというのである。

物質的に恵まれたヨーロッパにくらべ、貧しいこの国の人たちのほうが、生き生きして楽しく過ごしているではないかという自省の念である。

オランダへ帰国後、彼は海軍大臣となり,一時外務大臣も兼任するという重責を負ったが、在任中に病を得て若干50歳で他界した。

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