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日本史ひとこま

出島のオランダ商館長 ドゥーフ

幕末

幕末

出島のオランダ商館長 ドゥーフ

江戸時代、わが国が西洋を覗き見ることができたのは、長崎出島のオランダのみである。 孤立化を懸念する徳川吉宗は、1720年、殖産興業、国産化奨励のため禁書令を緩和し、キリスト教に無関係の書物の輸入を認め、西洋知識の導入に乗り出した。 さらに田...
幕末

アーネスト・サトウの見た日本

慶応2年(1866年)、横浜で発行されていた、週間英字新聞「ジャパン・タイムズ」に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳され、「英国策論」と題して出版された。 日本が国際社会に登場するためには、今の幕藩体制ではだめで、...
幕末

カッテンディーケの見た日本

嘉永6(1853)年、ペリーの開国要求に驚愕した幕府は、あわてて交易国オランダに相談をもちかけた。これに対しオランダは、老中阿部正弘に、日本の地理的条件からして海軍をもつことが第一であり、洋式海軍の創設には尽力を惜しまないと返答した。 長崎...
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長州 暴発す

明治維新に先立つこと5年、文久3年(1863年)の長州は大変である。 前年には英国公使館に火をつけて大騒ぎをおこしたが、この年の5月には長州沖にいる外国船を突然砲撃し、こともあろうに長州一国で欧米4か国(米英仏蘭)を敵にまわした。 力でもっ...
幕末

徳川慶喜の武士道

家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。 「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう納めるか、難問山積...
幕末

尊王攘夷

江戸時代、庶民にとって仰ぎ見るのは徳川将軍家であって、京にいる天皇ではない。 この時期、幕府には800万石の収入がありながら、朝廷は幕府からわずか3万石を付与されるだけで、生きながらえている状況である。天皇は京都御所で息をひそめており、庶民...
幕末

松陰の死生観

「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北...
幕末

勝海舟の見識

勝が西郷隆盛と初めて会ったのは元治元年(1864年)9月、大阪である。 西郷は第1次長州征伐で幕府の消極的な戦闘準備を不満とし、軍艦奉行である勝の意見を求めに来た。 このとき勝は、今は自分の藩の利害などを考え内部抗争しているときではない。 ...
幕末

竜馬と象二郎

慶応3年の土佐藩はとりわけ多忙である。 その年の1月、後藤象二郎が長崎にやって来たのを知った亀山社中の面々は、竜馬に土佐勤王党の仇敵である彼を斬ろうと気色ばんだ。 ところが実際竜馬が会ってみると、意外にも馬が合った。 仇敵でありながら意気投...
幕末

“そうせい侯” 毛利敬親(たかちか)

米国との通商条約を朝廷の許可を得ずに結ぶとは何事かというのが水戸・尾張・越前藩主ら一橋派の抗議である。 安政5年4月、大老となった井伊直弼は、話しの内容はともかく彼らが許しも得ずに登城したのは不敬の至りであるとして、強引にも彼ら全員を隠居、...
幕末

水戸学のジレンマ

水戸家は徳川御三家の一つで、唯一江戸に常勤し将軍を補佐する副将軍である。 その水戸家が幕末にいたり、将軍家にとって獅子身中の虫になってしまった。 すなわち水戸学なるものがあろうことか、倒幕派の思想的支柱になったのである。 その発端は水戸黄門...
幕末

島津久光のジレンマ

万延元(1860)年桜田門外の変で井伊直弼という強烈な個性を失って以来、幕府は政治の舵取りを失い迷走状態となった。 さらには外国の威圧に腰砕けとなって、さかんに朝廷の顔色を窺うようになった。 公武合体はこの弱腰からでた理屈で、もはや幕府が自...
幕末

鯨海酔侯(げいかいすいこう)

文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。 もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。 幕府には人一倍恩義を感じていた。 したがって時流が倒幕に向かってい...
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切腹の美学

土佐勤王党の領袖・武市半平太が壮烈な三文字腹で切腹したのは、慶応元年5月、陽が落ちて篝火の焚かれる時刻であった。 土佐勤王党は武市が”一藩勤皇”を唱え、下級藩士・郷士200名を擁して成立した。 これに対し土佐藩参政・吉田東洋は、安政の大獄の...
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村田蔵六(大村益次郎)の武士道

適塾は医学塾というより蘭学塾である。 医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。 その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。 幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の...
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桂小五郎(木戸孝允)の英知

先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。 彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。 出石そばの出処は信州である。 徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏...
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龍馬無念

龍馬を殺害したのは京都見廻組の今井信郎(のぶお)といわれる。 彼は20歳で免許皆伝をうけた直心影流の達人で、幕府の剣術教授を勤めていた。 5尺8寸(175cm)の頭上から振り下ろす片手打ちは向かうところ敵がなく、師匠より禁じ手とされたという...
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