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長州 暴発す

長州 暴発す

長州 暴発す

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明治維新に先立つこと5年、文久3年(1863年)の長州は大変である。
前年には英国公使館に火をつけて大騒ぎをおこしたが、この年の5月には長州沖にいる外国船を突然砲撃し、こともあろうに長州一国で欧米4か国(米英仏蘭)を敵にまわした。
力でもって攘夷を決行したのである。

これを現代訳すると、山口県が政府の意向を無視して、英国大使館に放火し、英米仏蘭の外国船に向かって大砲を放ったという。山口は他の都道府県の反感を買ったばかりか、単独で世界の列強に攻撃をしかけるという、とても正気の沙汰とは思えぬ行動に走ったということになる。

さらには、幕府に無断で藩庁を萩から山口に移し、藩主も移住して山口藩となった。
藩をあげて常軌を逸しているが、尊王攘夷を実行するとは、そういうことなのである。

長州の尊王攘夷

これに先立つ4年前、安政の大獄に批判的な吉田松陰が井伊直弼により刑死となった。
それ以来、尊王攘夷は松下村塾生の合言葉である。
ただし攘夷にも鎖国にこだわる攘夷と、西洋技術を採り入れつつ防衛を強化する攘夷がある。松陰のいう攘夷は後者であって外国拒否ではない。

同様に尊王といっても天皇中心とはいえ、幕府を除外する「倒幕」と、幕府と手を組んだ「佐幕」がある。松陰は穏健な佐幕派であったが、安政の大獄以来、倒幕へと傾いていった。
松陰の死後、彼の弟子たちにより、長州は尊王倒幕の旗幟(きし)を鮮明にしていた。

一方、幕府は長州の暴挙に対し、体面を繕うのに四苦八苦である。幕府をないがしろにする長州に対し、公(朝廷)武(幕府)合体の挙国一致で外国に対処しようとする会津と薩摩。

長州、京を追われる

そこで幕府側の会津と薩摩は、8月18日、天皇を取り込んでいた長州の不意をつき、彼らを御所から締め出すことに成功した。しかも、最強と言われる新選組を京の街に配置して、長州の動きに目を光らせた。

勤王を唱え京の街を闊歩した長州兵は、無念にも、京を去らざるを得なくなった。
しかしその後も尊攘派の一部は京に残り、なおも倒幕に向けて密談を重ねていた。
ところが翌年(元治元年)6月、これを察知した新選組が池田屋において尊攘派を急襲、彼らを惨殺した。

これを聞いた長州尊攘派の怒りは只事でない。居てもたってもおられず、大挙京へ押し出した。
とはいえ、御所を守る会津・薩摩ら幕府軍は7~8万、対する長州軍はわずか2000である。予想通り返り討ちにあい、ほうほうのていで長州へ逃げ帰った(禁門の変)。

さらに追い打ちをかけるように、長州沖には4か国艦隊が報復に現れ、海岸線を守る長州軍を完膚なきまでに打ちのめした。
長州は満身創痍である。しかしこの内憂外患は身から出た錆で、他藩からみて同情の余地はない。

一方幕府は帝に砲撃を加えた責任を問いただそうと、長州征伐にのりだした。しかし雄藩連合を目論む薩摩がこれに反対し、長州藩主が恭順の意を表したため、家老の切腹で罪を許され、藩主はもとの萩へ引っ込んだ。
以後長州は幕府恭順派(保守派)が権力を握ることになった。

高杉、奇兵隊を創設す

しかし尊攘派が埋没してしまったわけではない。半年後、高杉晋作らが奇兵隊(民兵)とともに立ち上がり、保守派(武士)を打ち破り、長州の指導権を取り返した。民兵が武士を打ち負かすという画期的事件となった。

しかもこの時期、薩摩と長州は、ともに外国船と戦ってみたものの、圧倒的な実力差に攘夷など夢物語であると思い知った。勝海舟や坂本龍馬の説得もあって、この難局を乗り切るには薩長が一つになって幕府に代わり、外国の侵入を阻止するほかないと覚悟を決めたのである。
そして幕府を見限り、独自に外国から武器を調達し、倒幕の準備にいそしんだのである。

この間、長州藩主・毛利敬親は保守派、攘夷派を問わず、藩内で実権を奪った側に付いて、無私の心境にいる。そうしなければ、藩主ですら生き残れない時勢であった。

幕藩体制崩壊へ

そして1年後(慶応元年)、長州が性懲りもなく、再武装していると知った幕府は、朝廷の許可を得て長州再征を決定。長州藩に10万石の削封や藩主の隠居処分を通達した。
しかし長州がこれを無視した為、幕府は薩摩を含む西国32藩に出兵を促し、第2次長州征伐が始まった。

こうして幕府は15万の兵で長州へ向かったものの、集められた兵はことごとく迷惑顔である。しかも頼りとする薩摩が長州を庇護して動かないため、士気は上がらない。これに対し長州は圧倒的少数ながら新兵器を有し、大村益次郎や高杉晋作の指揮で幕府軍を圧倒した。しかも運悪く、将軍家茂が病死したため休戦となり、事実上、幕府軍は敗退した。

それまで、幕府が倒れるなどと夢想するものはいなかった。しかしこれを機に誰もが、ひょっとすると幕府はもたないのではと疑心暗鬼になり、幕藩体制は一挙に崩壊の一途を辿ったのである。

家康の巧妙な防御システム

本来世の中を変えるには、皆で議論を重ね、多数決でことを決するべきであろう。
しかし、家康のつくった幕藩体制は巧妙である。幕府の中枢には身内の親藩を入れ、高給は与えないかわり権力を与えた。一方、外様大名には高給は与えるも幕府中枢には入れず、不穏な動きをすると直ちに改易処分にした。システムを壊そうとする動きは、徹底的に潰してきたのである。

ところが突然浦賀沖に現れ、開国を迫るアメリカに、幕府はどうすればよいか茫然自失となった。このため膝を屈して、外様の諸藩に意見を求めたのである。自ら、家康システムに崩壊のきっかけを与えてしまったことになる。

暴発の功罪

しかしその体制が大きく揺らぐことになったのは、長州の自暴自棄ともいえる暴発であった。若いころの無謀な冒険がのちの成功の基になったという話しをしばしば聞くが、長州の歴史もまた、かくの如しである。

列強の中国植民地化を見聞し、長州だけでも独立を守り抜くと立ち向かったことは、決して無駄でなかった。欧米列強に「うかつに手を出せない相手」という印象を植え付けたからである。
明治維新はこういう下準備のもとに成立したのである。

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