土佐勤王党の領袖・武市半平太が壮烈な三文字腹で切腹したのは、慶応元年5月、陽が落ちて篝火の焚かれる時刻であった。
土佐勤王党は武市が”一藩勤皇”を唱え、下級藩士・郷士200名を擁して成立した。
これに対し土佐藩参政・吉田東洋は、安政の大獄の後でもあり、幕府の目をおもんぱかって彼らを弾圧しようとした。
したがって武市らにとってみれば、公武合体・開国派の吉田東洋はきわめて目障りな存在である。
文久2年、土佐勤王党は強引に吉田東洋を暗殺したあと、一時的に藩論を動かし京の政界もリードしたが、8月18日の政変後は失速し、公武合体派の巻き返すところとなった。
こうして土佐藩老公・山内容堂は次々に勤王党幹部を捕らえ、粛清が始まることとなった。
土佐勤王党の幹部捕縛の報に接し、清岡道之助ら23人の志士は幹部奪還を目論んで野根山番所を襲った。
しかしほどなく藩兵500人に追われ、結局藩吏に捕らわれの身となり、奈半利の河原でいっせいに斬首の刑に服した。
斬首は武士にとって惨めである。
両脇を抱えられ、後ろから首筋を押さえつけられ無理やり首を前に突き出す格好をとらされ、首をおとされる。
その後は衣類を剥がれ、甕の中に押し込められる。
完膚なきまでに武士の威厳が剥奪されるという意味で、実に悲惨である。
斬首が無理やり押し付けられる受動的で屈辱的な死であるのに対し、切腹は威厳を保ったまま、みづから演出する積極的な死の儀式である。
武市はかつて藩主の容堂に対峙した際、徳川と手を切るよう諌言したことが不遜であるとして容堂の不興を買っていた。
容堂は勤皇党幹部を捕縛させたものの、吉田東洋暗殺を白状しないのに苛立ち、武市には“君主に対する不敬行為”という罪状で無理やり切腹を言い渡した。
その切腹についてである。
江戸300年の泰平で、武士は朱子学に飼いならされ、武士道は品のいい行儀・作法あるいは修身というべき位置におかれた。
ところがペリー来航以来、彼らは急遽、武士道に目覚め、一命を投げ打って尊皇攘夷を叫喚するようになった。
彼らは、死を常に意識して生きる“守死”を心のよりどころとし、死に時を見誤らず、いかに見事に死ぬかという一点を凝視した。
こうして死は、武士にとって真価を問われる人生最大の関心事となった。
起つべきときに起ち、死ぬべきときに死ぬのが武士であり、死は決して不名誉なことでない。
見事な死とはすなわち切腹である。
幕末、多くの武士は切腹を名誉の死とし、死を恐れず、従容として割腹する心意気を武士道美学の究極とした。
武市半平太が選んだ切腹は三文字腹といわれる最も壮絶な方法で、横一文字に腹を3度切るのである。
十文字斬りよりさらに過酷な方法で、いったん刀を抜いて再再度腹に突き立てるため、完結したものはいないといわれていた。
武市は切腹の君命に対し、「大殿さまの仁を得て、武士らしく死を賜る」と答え、この方法で己の武士道を完結させた。
幕末、魅入られたように多くの志士が、躊躇なく切腹して果てたのであるが、明治に入りこの凄惨な自殺行為は消滅した。
しかし、切腹はなおも武士道美学の輝きを失わず、その後も明治帝に殉じた乃木希典、特攻生みの親・大西瀧治郎、異能の作家・三島由紀夫などにその幻影を見ることができる。