室町幕府は守護大名の連合政権といえる。
幕府本体が頼りないため、有力守護は政権維持のために、やむなく郷里を離れ京に住まなければならなかった。
このため守護は、自分の領地の経営を他人に任さなければならなくなり、ついには領主の地位を乗っ取られてしまうこととなった。
こうして守護大名の多くは没落した。
これに取って代ったのが、親族や部下であり、なかには名もなき国人(地頭)や斉藤道三・北条早雲のごとき出自不明の人物に一国を乗っ取られる(下克上)事態も出現した。
いわゆる戦国大名の登場である。
近江に目を移す。
京極家は室町期、近江にあって三関四職の一翼を担う名門であったが、北近江・浅井氏の下克上に会い没落した。
しかし京極高次の強運がかろうじて京極家の滅亡を救った。
高次は幼少期、美濃へ人質の身となる苦難にあうが、その後信長の部下となり、運が上向いた。
しかし、20歳のとき本能寺の変のあと光秀側についたため、山崎の合戦で惨敗し若狭へ逃亡した。
普通ならこれで命運つきたというべきであろう。
ここに美貌の妹が登場する。
竜子のちの“松の丸殿”である。
彼女は若狭国の守護・武田元明に嫁いだが、元明が兄高次と同様、山崎の合戦で光秀側についたため、戦死した。
竜子は捕らえられたが、秀吉がその美貌に惚れ込み、秀吉の側室となった。
その寵愛のほどは高次の処遇をみれば明白である。
彼女の命乞いで高次は罪を許されたばかりか、なんと近江高島郡二千五百石を与えられた。
以後も運良く加増され、ついに一万石の大名となった。
ところで、信長に滅ぼされた浅井長政とお市の方の間には3姉妹がいた。
茶々(淀君)・初・於江与(徳川秀忠夫人)の3人である。
この頃、秀吉は茶々(のちの淀君)に執心していた。
茶々は、妹の初が京極高次を慕っていることを知り、秀吉に無理を言って二人の結婚を認めさせた。
京極高次は妻が淀君の妹であったおかげで、とんとん拍子に出世を遂げ、文禄4年には大津六万石に加増され、翌年には従三位参議に任ぜられた。
ここまで高次には名だたる戦功というものはない。
巷では、この異例の出世は妹や妻の放つ光によるとささやかれ、高次は蛍大名という不名誉な称号を得たのであった。
秀吉の死後、関が原の戦いにおいて高次は家康・三成両陣営から参戦を求められたが、迷った末、弟・高知とともに家康につく。
かくして高次は大津城に10日間篭城し、2万とも4万ともいう立花宗茂と毛利元康軍の攻撃を防いだ。
おかげで、毛利・立花軍は関が原に間に合わず、西軍の勢力はおおいに削がれた。
関が原の後、家康は高次の奮戦を評価し、若狭小浜8万石の大名とした。
また、弟・高知も関が原の活躍により丹後12万石の大名となった。
こののち高次の子忠高は、大阪夏の陣の活躍で出雲松江二十六万石の大名にまで駆け上がったが、嫡子がなかったため死後、改易の危機に陥った。
しかし、甥である高和がかろうじて播磨龍野六万石を認められ、ついで讃岐丸亀六万石へ転封となった。
以後四国丸亀は京極高和を初代藩主とし、江戸260年間、京極家を藩主と仰いだのである。
近江の守護・京極氏がなぜ丸亀の藩主になったかという話しである。