日本史ひとこま/nihonsi

豪勇、佐々 成政(さっさ なりまさ)

豪勇、佐々 成政(さっさ なりまさ)

豪勇、佐々 成政(さっさ なりまさ)


これ以外生き延びる手はないという危機的状況でなければ、だれも真冬の北アルプスを横断するなどという、無謀な冒険はしないはずである。

ところが400年も前にその無謀に挑んだ男がいる。富山城主・佐々 成政である。

戦国期の動乱のなかで、成政は切羽詰まった状況に置かれていた。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を後押ししたことが秀吉の逆鱗に触れ、成政はあわてて剃髪したのち、娘を人質に差し出した。そのときは秀吉も思いとどまって本領を安堵した。

しかし、佐々 成政にとって秀吉は同じ信長の家臣であり、もともとは同格である。しかも彼は武術より調略によって相手を屈服させ、要領よく足軽から駆け上がってきた男である。

成政からみれば武士の風上にも置けない男で、いけ好かない。隙あらば寝首を掻いてやろうと目算しているうち、またたくまに全国支配を進められてしまった。

ところがそのうち、忸怩たるおもいの成政を突然、欣喜雀躍させる事件が勃発した。

徳川家康が織田信長の遺子信雄を奉じて、秀吉討伐の軍をおこしたのである(小牧・長久手の戦い)。

当初、成政は秀吉方につくと見せかけて途中で離反し、家康方に鞍替えした。

戦いは半年に及び、明らかに家康優位に進んだが、秀吉の調略に乗った信雄が和睦に応じたため、家康の大義は頓挫し、戦闘は終結してしまった。知略にたけた秀吉の戦略勝ちである。

しかし成政にとってみれば、ここは家康にもう一度戦いを再開してもらわねば身の置き場がない。なにしろ、怒り心頭の秀吉は離反した成政を切り刻んでも気が収まらぬ勢いである。

このままでは万事休すと考えた成政は、万難を排して家康に接見し、なんとか彼を説得することに一縷の望みを託したのである。

アルプス越え

しかし、富山の東には上杉景勝、西には前田利家がおり、南の多くは秀吉の勢力圏である。家康のいる浜松にたどり着くにはアルプス越えしか打つ手がない。

この動向が秀吉に伝わるのを恐れた成政は、天正12年旧暦11月、富山城で病臥しているように見せかけて周囲を欺き、18人の近習をつれてそっと城を脱出し、厳冬の立山から佐良(サラ)峠へ向かった。

昔から忍びの道として知られた険しい道である。成政一行がその佐良峠を越えていったところから、後世“さらさら越え”と呼ばれる。

そして1週間の立山縦走を経て、無事家康の領地諏訪に到達した。家康のいる浜松にたどり着いたのは、富山を出て1か月後のことである。

ところがこれほどの苦難をへて会見したにもかかわらず、家康からはにべもない返事しか得られず、成政は失意のうちに帰郷の途につかざるを得なかった。

帰りのアルプス越えは、寒さがよほど身にしみたに違いない。多数の遭難者を出しながら、なんとか富山にたどり着いたという。

覚悟していたとはいえ、翌年6月、恐れていた秀吉が10万の軍勢を擁して出陣し、富山城を取り囲んだ。

成政は衆寡敵せずとみて織田信雄を仲介に、髪を剃り僧衣を纏って秀吉に降伏した。このとき、秀吉は成政の領地のほとんどを没収したものの、意外にも成政を助命し、妻子と共に大坂城に移し御伽衆とした。

御伽衆(おとぎしゅう)

御伽衆(おとぎしゅう)とは大名の政治・軍事の相談役であるが、第一線から退いた重臣や没落大名などが僧形となり話し相手になることが多かった。

秀吉は読み書きが不得手のため、800人とも言われる御伽衆をおいて情報を入手した。また自分の出自をカムフラージュするため、元将軍の足利義昭、主筋の織田信雄、織田有楽斎、旧守護の山名堯熙、細川昭元など由緒ある身分の者を配下に置き、自分の権威を誇示した。佐々成政もそのひとりとなった。

御伽衆はいわば役目の終わった人たちであって、そこから一国の大名になるなどということは稀である。成政はその稀なひととなった。

一体、成政は秀吉にどのような接し方をしたのであろうか。我を折らず鬱屈したまま、不遜な姿勢を崩さなかったのか?あるいは一転、秀吉におもねる姿勢に転じたものか?

秀吉のほうも、ことごとく自分に逆らってきたこの男を快く思うはずがない。御伽衆として終わらせるより、必要以上の重荷を背負わせ、自滅させようという腹積もりだったのであろうか?

ともかく御伽衆になって2年ののち、秀吉は成政を肥後の国主に抜擢した。

当時、秀吉は本気で唐入りという野望をいだいており、九州をその兵站基地と考えていた。そのため、一刻も早く九州をひとつにまとめあげたいというのが本心である。

ところが、肥後は難治の国として名高い地である。

52人いる国人が肥後国内に群雄割拠して、独立国の体を成している。国人とはもともとその地の農民の元締めである地侍たちを束ねる統括者である。

彼らは農民に年貢を納めさせ、分捕った残りを領主である大名に納めている。その年貢の決め方も、どれほどの土地から収穫されたものか曖昧で、地侍や国人のいいなりである。

聞くところによれば、秀吉は太閤検地をおこなって、搾り取れる年貢の量を倍増し、さらには中間搾取している地侍、国人の権益を剥奪しようとしているらしい。そうはさせじと、52人の国人は秀吉が派遣した国主・成政をじっと睨みつけている。

成政の赴任にあたり、秀吉は難治の国ゆえ3年間は検地をせず、一揆を起こさぬように計らえと言い含めた。

秀吉の筋書き

しかし成政が肥後に入ってみると、国人のだれも自分の命に従うものとてなく、このままでは家臣を養うことすらままならない。

なにしろ成政はつい2年前まで富山城の城主であって、生粋の武人である。武術にかけては誰にも後れを取らぬ自信がある。

このまま連中を放任するなど、断じて許しがたい。国主として自分に従わぬものは成敗してくれるという意気込みである。

そこで成政は強引に検地を開始した。それに呼応するかのように国人たちが一斉蜂起し、肥後各地で一揆が勃発した。

成政は7,000の兵を率いて鎮圧にかかったが、まったく功を奏さず、お手上げの状態となった。結局、秀吉の要請で動員された九州・四国の大名連合により、一揆の首謀者である国人の大半が殲滅されたのである。

この不始末の責任をとって、成政は切腹を命じられた。さらに肥後を占拠していた国人のほとんどが洗いざらい取り除かれ、秀吉にとっては願ったりかなったりの結末となった。

秀吉は成政が引き起こすであろう失態を予測して、肥後の国主に任じたのではないか?そうであれば、すべては彼の筋書きどおりということになる。

秀吉の執拗な一面を垣間見る思いのするエピソードである。

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