臥薪嘗胆は日清戦争後のわが国にとって、国民の合言葉となった。
日清戦争を制して遼東半島を領有した日本に対し、南下政策をとるロシアが、有無を言わせず遼東半島を強奪したのである。
日本の面目は丸つぶれである。
しかし、たかだか20万の兵力しかもたぬ我が国に対し、200万という世界屈指の軍隊を擁するロシアに、沈黙せざるを得なかった。
以後、我が国は復讐を誓い、10年をかけて軍艦建造、武器弾薬の製造に躍起となった。
驚くべきことだが、この時期、国家予算の50%以上が軍事費に振り向けられたという。
日露戦争で、大陸へ押し出した日本陸軍は20万に上ったが、ロシアは30万を越える軍隊を満州へと繰り出した。
日本陸軍は四軍に分割され、第一軍司令官には黒木為楨(ためもと)が任命された。
彼は数に勝る最強のコサック兵を相手に互角に渡り合い、ともかく日本は勝利したのである。
明治という時代、世界は白人社会に黄色・黒色人種が隷属している社会であった。
黄禍論が白人社会に浸透し、黄色人種に立憲主義国家などできるわけがないと思われていた時代である。
あろうことか、国際社会にデビューわずか30年のアジアの小国が、白人大国をうち破ったのである。
アジアの国々は狂喜した。
この大戦中、イギリスからは観戦武官にハミルトンなる人物が派遣されていた。
黒木司令官は凱旋すれば、国民的英雄であり、栄達は思うがままであろう。
その彼にハミルトン氏が、戦後の身の振り方を訊ねた際の返答である。
「国民が戦勝にうかれるのは僅かな間だけである。軍隊は非常時には必要なものであるが、平和な時代には不要のものである。自分はさっさと田舎に帰って、百姓をする。我々軍人はすぐに忘れられる。忘れてしまわれるために我々はおるのだ。」
東洋の一将校の達観した言動は、その潔さに感動したハミルトンによって記録され、いまに語り継がれている。