世界史ひとこま/SEKAISI

ポルトガルとスペインの世界二分論

ポルトガルとスペインの世界二分論

ポルトガルとスペインの世界二分論

12019 / Pixabay

我が国が室町時代の後半にさしかかった頃、ヨーロッパではポルトガルとスペインが驚くべき相談をしていた。

自分たちが住むヨーロッパはさておいて、あとの世界をこの二国だけで分けてしまおうというのである。

その契機になったのは、1492年、スペイン国王の命でコロンブスがアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパの外にはまだまだ未知の世界があると分かったことである。

ついでポルトガル国王の命をうけ、バスコ=ダ=ガマがインド航路を発見した。

ヨーロッパ人にとって香料を始めとするアジアの物産は、十字軍の遠征以来、垂涎の品であった。

しかしこれらを手に入れるためには、地中海、紅海に勢力を張るイタリヤ商人、アラビア商人を通さなければならなかった。

アフリカ南端を経て、インド航路からアジアへ直接乗り入れれば、直接香料を入手でき、通商を独占できるではないか。

しかし何といっても遠洋航海である。

当時は風を頼りの帆船であるから、たびたび中継所に寄港して食糧、水を補給しなければならない。

したがって数多くの寄港地を自分の勢力下におく必要に迫られた。

大西洋に頭を突き出しているポルトガルとスペインは、国を挙げて船で世界へ乗り出し、ことごとく自分たちの領土にしてしまおうと考えたのである。

二国はスペインの小都市トルデシリャスに集まり、アフリカの西側に南北の線を引き、これより西をスペイン、東をポルトガルで分けようと約束した(トルデシリャス条約)。

当然英国・フランス・オランダなどがこれを黙ってみているわけがない。

そこでポルトガルとスペインは、プロテスタントの攻勢に危機感を覚えるローマ教皇に掛けあって、自分たちがカトリックの先兵となりヨーロッパ以外の世界に布教してまわるので、植民地化するのは大目に見てもらうことに成功した。

しかも他の国々が植民地をもつことは禁止するというお墨付きまでもらった。

スペインは、まずコロンブスが発見したカリブ海のキューバ、ジャマイカなど西インド諸島を支配下におさめ、ついでメキシコのアステカ帝国、ペルーのインカ帝国を滅亡させ大量の銀を本国にもたらした。

こうして中央アメリカおよび南アメリカに勢力をのばしていった。

一方、ポルトガルはバスコ=ダ=ガマがインド航路を発見したため、アフリカ西海岸の諸国を制圧しながら、アラビア海沿岸のイスラム勢力を駆逐し、インド洋にいたる制海権を握った。

こうして香料の集散地カリカットとコーチンを傘下におさめたポルトガルは、インド洋にいたる壮大なネットワークを完成させたのである。

ところで第二次インド遠征に向かったポルトガル船がアフリカを南下中、嵐で西方へ流され南アメリカへ漂着したのに気付かず、この地を植民地とした。

それがブラジルであった。

アメリカ大陸の領有権はスペインにあったが、以上の事情からしぶしぶポルトガル領とすることを承認した。

ただし、ポルトガルもスペインも植民地政策がまったくお粗末であった。

自分たちに服従させるため、原住民を無差別に虐殺し、捕虜は牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。

制圧のためとはいえ、その被害者は実に数千万人にのぼるといわれる。

おかげで人口が激減し、植民地にしたものの、開発に必要な労働力はまったく不足してしまった。

展望も政策もあったものでない。

ポルトガルは、ブラジルでサトウキビ栽培をもくろんだが、労働力不足に窮した結果、アフリカのギニアやコンゴ、アンゴラの黒人奴隷を中南米に運んで、労働力を確保しようとした。

毎年1万人以上という壮大な輸送計画である。

このポルトガルとスペインの活躍のおかげで、ヴェネツィア商人、イスラム商人は衰退の一途をたどることとなった。

ところでポルトガルとスペインの二国が東西に分かれて植民地の争奪に突き進んでいけば、地球の裏側で両者がぶつかり合うことは必至である。

皮肉なことに、その衝突する地点が日本を縦断する南北線であった。

西回りのスペインはアジアに至り、マゼランのフィリピン群島発見を理由に、この地を植民地とし、フィリピンと命名した。

東回りのポルトガルは、インド洋を越え、インドネシアまで進出、この地を植民地とした。

ついで中国、日本をめざした船がたまたま種子島に漂着した。

日本に火縄銃が伝えられたのはこの時である。

数年後にはフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、我が国にはじめてキリスト教を伝道した。

ザビエルはイエズス会の宣教師である。

当時、キリスト教はプロテスタント(新教)がカトリック(旧教)から分かれ、勢力を伸ばしつつあった。

カトリックの宗主ローマ教皇は焦燥感を覚え、プロテスタントに先んじてカトリックを世界に広めようと画策した。

その組織がイエズス会である。

我が国へのキリスト教の伝道にはこのような背景があった。

しかし16世紀も半ばを過ぎると、イギリスやオランダ、フランスが相次いでアフリカやインド洋に進出し、ポルトガルが拠点としていたゴアやマカオに代わり香港やバタヴィアなどを交易の中心とし、香料諸島からポルトガル勢力を駆逐していった。

ポルトガルの衰退は目を覆うばかりである。

1580年には本国がスペインに併合されてしまい、60年後になんとか独立を回復したが国はすっかり疲弊してしまった。

さらに1822年、ブラジルも独立を果たし、ポルトガルは400年前の小国に戻ってしまった。

一方スペインは16世紀を通じ、カール5世とフェリペ2世二人の治世が「太陽の没することなき帝国」と呼ばれる興隆を誇った。

同時に地中海を含むヨーロッパ各地で勃興したオスマン帝国やイタリア、フランスと戦火を交えた。

しかし1588年、ついにスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れた。

さらに1640年には一時併合したポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国が独立、18世紀初頭にはスペイン継承戦争がおこり、その興隆は終焉を告げた。

ただし広大な海外領土は19世紀初めまでかろうじて維持するに至った。

こうして世界の海洋国家の覇権争いは、オランダ、イギリスへと移っていったが、彼らはポルトガルやスペインが植民地経営に失敗したのを参考に、慎重な計画のもとに経営に臨んだのであった。

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