世界史ひとこま/SEKAISI

オアシスの隊商、シルクロードを行く

オアシスの隊商、シルクロードを行く

オアシスの隊商、シルクロードを行く

いまどき、 長安を発し 1000キロにおよぶ荒涼たる砂漠と標高 5000mの山岳を、ラクダやヤクで越えるなどというレースに挑む者は、果たしてどれほどいるであろうか。

 

かつて、オアシスの隊商たちは生活のため、この過酷な旅に出なければならなかった。

夏には灼熱のタクラマカン砂漠を、徒歩かあるいはラクダの背に乗って、何十日も進まねばならない。(ちなみにラクダにまたがると、 臀部の 痛みで数時間しか乗っておれないという。)

また冬には富士山より高く、雪に埋もれたパミール高原の峠を、 100キロの荷を積んだヤクとともに越えていくのである。

 

しかも、それが 1000年以上も前のこととなると、隊商は盗賊に襲われる危険に晒されたまま、サマルカンドに辿りつくまで生きた心地がしなかったであろう。

 

後世、ひとはシルクロードなどと結構な名前を付けてくれたが、現実には想像を絶する強行軍であった。たしかに中国からは絹や養蚕以外にも、製紙、印刷、火薬,羅針盤などが、ここを通って西方へもたらされたのであるが、それらが幾多の犠牲のうえになされたであろうことは論を待たない。

    

シルクロードにあらわれた民族

 シルクロードと呼ばれるこの交易路は、古来、遊牧民の生活の場であり、東西交流の場であった。スキタイに始まる騎馬遊牧民が、草原の道と呼ばれる北方ルート上に現れ、匈奴、鮮卑、柔然、ついでトルコ系の突厥、ウイグル、キルギス、さらにはモンゴルなどの遊牧国家が興亡した。

 

一方、漢、唐などの中国王朝もシルクロードのオアシスを支配し、ここから得られる利益を独占しようと目論み、騎馬遊牧民との激しい攻防を繰り返した。

 

ところで、トルコ人がシルクロードで活躍を始めるのは、552年、トルコ系の突厥が柔然を滅ぼし中央アジアに大帝国を築いてからである。(ちなみに現在のトルコ共和国は、この552年をトルコ建国の年としている。)

 

突厥は中央アジアへ侵攻を繰り返したが、 8世紀中ごろ同じトルコ系のウイグルに滅ぼされた。このウイグルは突厥と同じ騎馬遊牧民であったが、840年、トルコ化していた北方のキルギスに敗れたのちは、遊牧生活をやめて中央アジア定住した。

 

その後、彼らは混血を繰り返してトルコ化したため、次第に中央アジアの一帯は「トルコ人の住む地域」という意の「トルキスタン」と呼ばれるようになった。

さらに、10世紀末、この地にトルコ系イスラム王朝・カラハン国が登場してからは、シルクロードのオアシスにも進出して定着したため、オアシスの多くはトルコ人が占めるようになった。

  オアシスに住む人々

  さて、そのオアシスについてである。

いったい、オアシスの人々はどのような生活をしていたのであろうか?

オアシスとはもともと乾燥したところにできた緑地というほどの意だが、転じて「憩いの場」として使われるようになった。

 

現実には人の棲めぬ砂漠や草原のなかで、わずかに水源に恵まれた処が、オアシスであり得た。多くは遊牧民族の一部が定住を決意し、農耕にいそしみながらオアシスに腰を落ち着けた。

 

オアシスの人口は数千から数万、多くてもクチャが 10万、カシュガル、ホータンが 2万という程度である。人口が増えると住民は街を城壁で囲み、住民のなかから常備兵を募り敵襲に備えた。危険が迫ると、住民の4人に1人が城の防禦に当たったという。

 

オアシスの住民は時代と共に、イラン系、アーリア系からトルコ系に移っていったが、農耕、牧畜をおこなう一方で、隊商(キャラバン)による交易を大きな収入源とした。

つまり、オアシスの住民の最も重要な仕事は、西方の金銀、織物を中國に運び、中国の絹、紙、武器、漆器を西方にもたらすことであった。

 

この交易では極めて高額な商品を売買するのであるから、どうしても彼らのように信用のおける交渉人が不可欠である。

彼らはしばしば騎馬遊牧民と交渉し、穀物や織物、工芸品を渡す代わりに、隊商の安全を担保してもらう約束をとりつけた。

 

イラン系民族・ソグド人

  とはいえ、悪天候の山岳や荒野を、命懸けで貴重品を運ばねばならない。商才だけでなく体力、気力の充実したものでなければ、この仕事は務まらなかった。

この厄介な仕事を請け負った代表的商人が、西トルキスタンのオアシス・サマルカンドを拠点としたイラン系のソグド人である。

 

時あたかも、史上最強とうたわれた唐とウイグルの抗争のさなかであったが、彼らはサマルカンドから長安の間を行き来して交易し、さらには各オアシス都市も中継貿易によって相当の利益を得た。

 

当時、唐の都・長安には世界一といわれる 100万を超す人々が行きかい、殷賑を極めていた。

このため、長安にはシルクロードを経由し、あまたの胡人(こじん)が流入した。

 

胡人は本来異国人の蔑称だが、当時は 1000人を超えるソグド人の呼称になっていた。とくに胡姫(こき)はペルシャ女性の蔑称で、多くはソグド商人により、人身売買によって連れられて来た。

彼女らはトルキスタンに住む戦争捕虜や罪人、生活破綻者などで、サマルカンドで音楽や舞踏などの芸能を教え込まれたのち、長安へ向かった。

 

当時長安の都には彼女らの居住区があり、毎夜歓楽街で歌や踊りを披露していたという。

このように、ソグド商人は金銀製の器やガラス製品以上に女奴隷を貴重な商品として、長安に運んでいたのである。

 

しかし 8世紀半ば、ソグド人の本拠地であるソグディアナがアッバース朝の支配下に入り、イスラム化が進行するにつれて、ソグド人は歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

 

シルクロードのその後

シルクロードはその 後、オアシスを経過する天山南、北路や西域南路に代わり、ステップと呼ばれる北方の草原の道が台頭してきた。

さらには、イスラム商人が担い手となった海のシルクロードが重要視されるようになった。

 

そして、 15世紀末、マゼランやバスコダガマによる新航路発見がきっかけとなり、交易の主体は海上に移り、オアシスを経由するシルクロードは、次第に歴史的意義を終えることになった。

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