地震で家が倒壊したのが、出掛けた直後だったとか、墜落した飛行機に乗り遅れたため九死に一生を得たなどというニュースを聞くたび、たまには、そんなことも起こりうるだろうとは考えるのだが、それが何度も繰り返すとなると、偶然だとはいえない何かを感じるものである。
今年96になる義父の戦時体験は、そのケースにあたるだろう。
我が国は日露戦争で南満州の鉄道利権を得ていたが、その後第一次世界大戦の混乱に乗じ、中国に21箇条の要求をして山東半島や満州の利権の強奪を目論んだ。しかしこれではひどすぎるとして、ワシントン会議で否決され、計画は頓挫していた。
ところが昭和6年、当時陸軍参謀本部の下部組織にすぎない関東軍が暴走を始め、本部に無断で張作霖を殺害し、満州の実権を強奪した(満州事変)。
こうして満洲は日本の植民地同然となり、わが国から200万もの人々が海を渡った。
農業移民はわずかで、大半が木材・化学・食品工業などの国策事業に従事したという。
かつては、渤海をはじめ中国の金や清も、この地から興った。
歴史の偶然だがその昔、我々日本人の祖先も多くはこの地を発し、日本に渡ったといわれる。したがって満州移住は父祖の地に戻ったともいえよう。
満州の中心、黒竜江省は北東でロシアに近接し、なかでもハルピン、チチハルとともに重要拠点とされる牡丹江(ぼたんこう)から望むと、ウラジオストック(ロシア領)は目と鼻の先にあり、予断を許さない。関東軍も特に牡丹江を防衛上の軍事拠点と位置付けた。
義父が牡丹江へ赴任したのは若干22歳、昭和17年12月に陸士を卒業して、数か月のことであった。太平洋戦争は開戦後すでに1年が経ち、ミッドウェー、ガダルカナルでの敗戦以来、日本軍の劣勢が伝わって来ており、居ても立っても居られない心境であったろう。
彼は牡丹江に赴任するや、関東軍の指揮下に入り、ただちに軍事教練がスタート、2年間を過ごした。この間、ソ連とは不可侵条約を結んでいるため、不穏ながらも戦闘はない。しかし、アッツ島玉砕など日本軍の劣勢は明らかであり、ソ連国境での緊迫感は高まる一方であった。
こうして、昭和19年10月、連合国軍はサイパン、グアム島で日本軍を玉砕したあと、フィリピンに侵攻した。これに対し、陸軍参謀本部は北上を目指す連合国軍を迎え撃つため、牡丹江の義父たちにも出撃命令を出し、彼は数百名の仲間とともに、満を持して沖縄に向かった。
翌20年3月より半年にわたり、50万の米英軍を相手に、決死の戦いを挑んだ日本軍の一員に加わるためである。悲しいかな、戦力的にみてとても勝ち目はなく、沖縄の第32軍司令部は、本土決戦までの時間稼ぎ、すなわち「捨石作戦」と覚悟を決めていた。
上官がつぎつぎに落命していくなか、義父は25歳で中隊長となり、500人の部下をもった。幕末武士道に守死というが、緊迫の沖縄で、いかに見事に散るか、そんなことを毎日考えながら過ごす日々であったという。
ところが、沖縄の首里で終戦の年となる昭和20年を迎えた義父は、突然、参謀本部より台湾行きを命じられた。
これは台湾沖航空戦の誤報により、陸軍参謀本部がフィリピンでの米英決戦に方針転換したためである。このため日本最大の航空拠点である台湾に、第9師団を後詰として、沖縄から急遽、配置転換することにしたのである。
一方、沖縄の日本軍は主力の第9師団を引き抜かれてしまったため、敵を水際で叩く作戦から、沖縄本島での持久戦へ作戦変更せざるを得なくなった。
こうして義父たちは慌ただしく軍艦に搭乗し、台湾に移動した。
ところが事前にこれを察知した米英軍は、日本の防衛が強固な台湾を素通りし、大挙沖縄本島へ進撃した。このため、沖縄9万の日本軍は半年にわたって抵抗をつづけた後、民間人10万人を巻き込んで壮絶な死を遂げた。
皮肉にも国内最強といわれた第9師団は、一度も交戦することなく台湾で終戦を迎えた。
しかも、本土空襲が激しくなった昭和20年5月、義父は急遽、石川県金沢市の第9師団司令部に転属となった。偶然、参謀本部の教育総監本部長が東京へ戻る飛行機に便乗させてもらうこととなった。
ところが離陸後まもなく米軍機に発見され、執拗に追撃されて、あやうく撃ち落されそうになった。しかしここでも、旋回しながら中国大陸方面へ逃げ切り、かろうじて帰国の途に就くことができた。格段に性能の高い敵機の目から逃れられたのは、ほとんど奇跡的だったという。
無事金沢に着任した義父は、本土空襲への対応に追われる日々を過ごすこととなった。
不意を突いてB29の編隊が現れ、近隣の富山市や福井市などに焼夷弾を落としている(罹災者8割強)にもかかわらず、北陸第一の軍都である金沢市だけが、なぜか空襲を免れていた。そのうち、とてつもなく恐ろしいことが起こる前兆(たとえば原爆実験の候補地など)ではないかと、不安な毎日を過ごすうち、ついに終戦日を迎えた。結局、真相は分からずじまいである。
これほどの激戦地をめぐりながら、職業軍人の義父は、戦うことなく終戦を迎えた。召集兵だった叔父が、フィリピン沖の海戦で無念の死を遂げたのと対照的であった。
運命とはいえ、義父は軍人として心底、忸怩たるものがあったという。
もし牡丹江に留まっておれば、おそらく落命していたであろう。事実、終戦日を待たずソ連軍の侵攻をうけ、牡丹江の防衛部隊を含む民間日本人680名が大量殺戮されたのであった(牡丹江事件)。
無論、沖縄に留まっておれば、圧倒的な連合国軍の前に玉砕したのは間違いない。このとき連合国軍の使用した銃弾・砲弾の数は270万発といわれ、じつに20万人もの日本人(軍人、民間人)が犠牲となった。
台湾に赴いた義父たちは、死を決して赴任したにもかかわらず、米英軍に素通りされ、肩透かしを食った。
さらに米軍機の追撃にも九死に一生を得、赴任地金沢でも本土空襲を免れた。
針の穴を通すような生き様だが、すべて軍令に従って動いた結果であり、戦没者300万人という大戦のなかを、奇跡的に無傷で潜り抜けた。
稀有な戦争体験といえるのではないだろうか。